かごめかごめ (2)
かごめかごめ (2)
かごめ かごめ
かごの なかの とりは
いついつ でやる
よあけの ばんに
つると かめが すべった
うしろの しょうめん だあれ
「かごめかごめ」のわらべ唄については、
現在、江戸中期と同じように「謎」、「暗号」とか
「本当は怖い話」、「都市伝説」、はては「徳川埋蔵金」などと、
隠された意味や起源をさぐるいろいろな解釈がされているようである。
しかし、ここは、一見、奥が深そうなkemukemuワールド、
いろいろと変形を受けてきたであろうわらべ唄遊びのひとつとして
受けとめ、歌詞の字句にとらわれず、
あまり深読み・裏読みせず、オーソドックスに、
まずは、昔のことについて、
資料・情報が豊富な民俗学者の意見に耳を傾けていきたい。
民俗学者の柳田国男が「かごめかごめ」について、
つぎのいくつかの著作でふれている。
『 』は文章引用部分(注:段落を下げて読みやすく調整した)
●「日本の伝説」伝説と児童(昭和4年)
『東北の田舎では、三十年ぐらい前まで、
地蔵遊びという珍しい遊戯もありました。
一人の子供に難点の木の枝をもたせ、
親指をかくして手をにぎらせ、
その子をとりまいてほかの多くの子供が、
かごめかごめのようにぐるぐるとまわって、
「おのりゃあれ地蔵様」と、なんべんもとなえていると、
だんだんにその子が地蔵様になります。
物おしえにござったか地蔵さま
遊びにござったか地蔵さま
といって、みんながおもしろく歌ったりおどったりしましたが、
もとは紛失物などのある時にも、
この子供の地蔵のいうことを聞こうとしました。』
●「小さき者の声」童児と昔(昭和17年)
『・・・もとはこの輪を作っている年がさの者が、
他にもまだいろいろ問答したのではないかと思います。
この遊戯が今の東京の樽御輿などと同じく、
以前の信仰行事の模倣であることは、
現在その変化のいろいろの階段が併存することによって証明せられます。
たとえば北越後の農村においては少なくとも、
八十年前(注:1860年前後か)まで、
宮城県内の某郡ではつい近いころまで、
よく似た遊びが青年の間に行われていました。
若い男女の多く雇われた大農の家の台所で、冬の夜長の慰みに、
あるいはまた何か寄合いの余興などに、
仲間の中でいちばん朴直なる一人を選定して真中にすわらせ、
これを取り囲んで他の一同が唱え言をする。
多くは神仏の名をくり返し、または簡単な文言もあります。
こんな手軽な方法でも、その真中の一人の若者には刺激でありまして、
二、三十分間も単調な詞をくり返すうちに、
いわゆる催眠状態にはいってしまうのです。
そうすると最初のうちは、
「うん」とか「いや」とか一言で答えられることばかりを尋ねますが、
後にはいちだんと変になっていろいろなことをしゃべるそうです。
・・・・中座の男の精神状態だけは、
信仰のきわめて旺盛であった昔の神降ろしの場合と同じことで、
ただ群集のこれに向かう心持だけが変わっているのです。・・・・』
柳田国男によれば、職業としての霊媒にたのんだり、
中座の男に御幣などを持たせ、神霊の意見を聞くこともあったという。
また『普通の婦人、少年などに霊を付けようとすると、
多人数の力をもってわいわい騒がなければならない』
『信仰は変化しても、外形のおもしろさだけは忘れて捨てていない。」としている。
●「子ども風土記」(昭和17年)
『動いている人の輪がはたと静止したときに、
真後(まうしろ)にいるものを誰かときくのだから、
これは「あてもの遊び」の一つであった。
子どもはもう知らずに歌っていることであろうが、
気をつけてみると、この「かごめ」は身を屈(かが)めよ、
すなわちしゃがめしゃがめということであった。
誰が改作したか、それを鳥の鴎のように解して籠の中の鳥といい、
籠だからいつ出るかと問いの形をとり、
夜明けの晩などというありうべからざるはぐらかしの語を使って、
一ぺんに座ってしまうのである。』
『遊びはもともと輪を作って開いたりつぼんだり、
立ったり屈んだりするのが眼目であった。
そうして歌は、またその動作と、完全に間拍子があっている。』
子どもが手をつないで輪になって、ぐるぐる廻る遊びで、
問答が中心だったらしい。
また似たような遊びで、柳田国男は、
子どもの頃(1880年代)には「中の中の小仏」で遊んだことを、
記憶しているという。
中の中の子坊さん なあぜに背が低い
親の逮夜(たいや)に魚(とと)食うて それで背が低い
うしろにいる者だあれ(うしろの正面だあれ)
目隠しをさせるか、
顔を両手でおおわせて正面にしゃがんだ児を誰さんといわせる。
またつぎのような地蔵遊びもあったという。
(以下、柳田国男の報告)
○山梨県の「中の中の地蔵さん」
『「中の中の地蔵さん」とうたい、その「中の地蔵」が
周囲の子の頭を叩きまわって、
「外の外の小僧ども なぜ背が小さいな・・・』といっていた。
○茨城県の地蔵遊び
一人をまん中にかがませて目かくしをさせ、
周囲の輪の子どもが廻りながら、「なぜに背が低い」を唱え、
その運動を止めるや否や
なかの地蔵が一人をとらえてだれさんと名をあてる。
それが的中すると地蔵が代わる。
○福島県海岸地方の地蔵遊び「御乗りやあれ地蔵様」
『「乗る」とはその児(地蔵様)に乗り移って下さいということで、
そうするうちにまん中の児は、しだいに地蔵様になってくる。
自分ではなくなって、色々なことを言い出す。
そうなると、他の子どもは口々に、
「物教えにござったか地蔵さま 遊びにござったか地蔵さま」と唱え、
みんなで面白く歌ったり、踊ったりするが、
元は紛失物などが見つからないのを、
こうして中の中の地蔵様に尋ねた』
○仙台付近の農村
田植休みの日などに若い男女が集まって、
大人ばかりでこの地蔵遊びをしていた。
つまり、柳田国男によると、
「かごめかごめ」は本来は「屈(かが)め屈め」で、
子どもたちにかこまれた鬼役の子が、
しゃがんでいるところから発想されたもので、
それを鳥の鴎のように解釈して籠の中の鳥といい、
籠だからいつ出るかと問いの形をとることになった。
屈(かが)め→かもめ→籠の中の鳥・・・・。
「夜明けの晩」も「鶴と亀」も「うしろの正面だあれ」を導き出すまでの
はぐらかしの言葉で、類似の地蔵遊びも含めて、
もともとは、神の意思を聞くための神降ろし(巫女をおおぜいでかこみ、
神聖な唱えごとをくりかえすと、
巫女は神がかりになり、さまざまなことを口走り、
人々はそれを神のお告げと受け取っていた),
その神の口寄せというものの形式を
子どもがその真似をくりかえしていたとする。
(さらに次回につづく)
かごめ かごめ
かごの なかの とりは
いついつ でやる
よあけの ばんに
つると かめが すべった
うしろの しょうめん だあれ
「かごめかごめ」のわらべ唄については、
現在、江戸中期と同じように「謎」、「暗号」とか
「本当は怖い話」、「都市伝説」、はては「徳川埋蔵金」などと、
隠された意味や起源をさぐるいろいろな解釈がされているようである。
しかし、ここは、一見、奥が深そうなkemukemuワールド、
いろいろと変形を受けてきたであろうわらべ唄遊びのひとつとして
受けとめ、歌詞の字句にとらわれず、
あまり深読み・裏読みせず、オーソドックスに、
まずは、昔のことについて、
資料・情報が豊富な民俗学者の意見に耳を傾けていきたい。
民俗学者の柳田国男が「かごめかごめ」について、
つぎのいくつかの著作でふれている。
『 』は文章引用部分(注:段落を下げて読みやすく調整した)
●「日本の伝説」伝説と児童(昭和4年)
『東北の田舎では、三十年ぐらい前まで、
地蔵遊びという珍しい遊戯もありました。
一人の子供に難点の木の枝をもたせ、
親指をかくして手をにぎらせ、
その子をとりまいてほかの多くの子供が、
かごめかごめのようにぐるぐるとまわって、
「おのりゃあれ地蔵様」と、なんべんもとなえていると、
だんだんにその子が地蔵様になります。
物おしえにござったか地蔵さま
遊びにござったか地蔵さま
といって、みんながおもしろく歌ったりおどったりしましたが、
もとは紛失物などのある時にも、
この子供の地蔵のいうことを聞こうとしました。』
●「小さき者の声」童児と昔(昭和17年)
『・・・もとはこの輪を作っている年がさの者が、
他にもまだいろいろ問答したのではないかと思います。
この遊戯が今の東京の樽御輿などと同じく、
以前の信仰行事の模倣であることは、
現在その変化のいろいろの階段が併存することによって証明せられます。
たとえば北越後の農村においては少なくとも、
八十年前(注:1860年前後か)まで、
宮城県内の某郡ではつい近いころまで、
よく似た遊びが青年の間に行われていました。
若い男女の多く雇われた大農の家の台所で、冬の夜長の慰みに、
あるいはまた何か寄合いの余興などに、
仲間の中でいちばん朴直なる一人を選定して真中にすわらせ、
これを取り囲んで他の一同が唱え言をする。
多くは神仏の名をくり返し、または簡単な文言もあります。
こんな手軽な方法でも、その真中の一人の若者には刺激でありまして、
二、三十分間も単調な詞をくり返すうちに、
いわゆる催眠状態にはいってしまうのです。
そうすると最初のうちは、
「うん」とか「いや」とか一言で答えられることばかりを尋ねますが、
後にはいちだんと変になっていろいろなことをしゃべるそうです。
・・・・中座の男の精神状態だけは、
信仰のきわめて旺盛であった昔の神降ろしの場合と同じことで、
ただ群集のこれに向かう心持だけが変わっているのです。・・・・』
柳田国男によれば、職業としての霊媒にたのんだり、
中座の男に御幣などを持たせ、神霊の意見を聞くこともあったという。
また『普通の婦人、少年などに霊を付けようとすると、
多人数の力をもってわいわい騒がなければならない』
『信仰は変化しても、外形のおもしろさだけは忘れて捨てていない。」としている。
●「子ども風土記」(昭和17年)
『動いている人の輪がはたと静止したときに、
真後(まうしろ)にいるものを誰かときくのだから、
これは「あてもの遊び」の一つであった。
子どもはもう知らずに歌っていることであろうが、
気をつけてみると、この「かごめ」は身を屈(かが)めよ、
すなわちしゃがめしゃがめということであった。
誰が改作したか、それを鳥の鴎のように解して籠の中の鳥といい、
籠だからいつ出るかと問いの形をとり、
夜明けの晩などというありうべからざるはぐらかしの語を使って、
一ぺんに座ってしまうのである。』
『遊びはもともと輪を作って開いたりつぼんだり、
立ったり屈んだりするのが眼目であった。
そうして歌は、またその動作と、完全に間拍子があっている。』
子どもが手をつないで輪になって、ぐるぐる廻る遊びで、
問答が中心だったらしい。
また似たような遊びで、柳田国男は、
子どもの頃(1880年代)には「中の中の小仏」で遊んだことを、
記憶しているという。
中の中の子坊さん なあぜに背が低い
親の逮夜(たいや)に魚(とと)食うて それで背が低い
うしろにいる者だあれ(うしろの正面だあれ)
目隠しをさせるか、
顔を両手でおおわせて正面にしゃがんだ児を誰さんといわせる。
またつぎのような地蔵遊びもあったという。
(以下、柳田国男の報告)
○山梨県の「中の中の地蔵さん」
『「中の中の地蔵さん」とうたい、その「中の地蔵」が
周囲の子の頭を叩きまわって、
「外の外の小僧ども なぜ背が小さいな・・・』といっていた。
○茨城県の地蔵遊び
一人をまん中にかがませて目かくしをさせ、
周囲の輪の子どもが廻りながら、「なぜに背が低い」を唱え、
その運動を止めるや否や
なかの地蔵が一人をとらえてだれさんと名をあてる。
それが的中すると地蔵が代わる。
○福島県海岸地方の地蔵遊び「御乗りやあれ地蔵様」
『「乗る」とはその児(地蔵様)に乗り移って下さいということで、
そうするうちにまん中の児は、しだいに地蔵様になってくる。
自分ではなくなって、色々なことを言い出す。
そうなると、他の子どもは口々に、
「物教えにござったか地蔵さま 遊びにござったか地蔵さま」と唱え、
みんなで面白く歌ったり、踊ったりするが、
元は紛失物などが見つからないのを、
こうして中の中の地蔵様に尋ねた』
○仙台付近の農村
田植休みの日などに若い男女が集まって、
大人ばかりでこの地蔵遊びをしていた。
つまり、柳田国男によると、
「かごめかごめ」は本来は「屈(かが)め屈め」で、
子どもたちにかこまれた鬼役の子が、
しゃがんでいるところから発想されたもので、
それを鳥の鴎のように解釈して籠の中の鳥といい、
籠だからいつ出るかと問いの形をとることになった。
屈(かが)め→かもめ→籠の中の鳥・・・・。
「夜明けの晩」も「鶴と亀」も「うしろの正面だあれ」を導き出すまでの
はぐらかしの言葉で、類似の地蔵遊びも含めて、
もともとは、神の意思を聞くための神降ろし(巫女をおおぜいでかこみ、
神聖な唱えごとをくりかえすと、
巫女は神がかりになり、さまざまなことを口走り、
人々はそれを神のお告げと受け取っていた),
その神の口寄せというものの形式を
子どもがその真似をくりかえしていたとする。
(さらに次回につづく)