大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

独裁者(9)

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独裁者(8)のつづき



反ユダヤ主義を美術で読む」(秦剛平著)によると、
図像のうえでもユダやユダヤ人の容姿は、
憎々しい特徴づけをもって描かれていくという。
ユダは多くの場合、黄色い服を着ている。
この色の服は、ユダヤ人が強制的に着せられたことが多く、
それは嫉妬、密告、恥のシンボルとされた。
ユダヤ人の「ダビデの星」は、ナチスによって、
キリスト教徒と区別するためにユダヤ人は屈辱のバッチの着用を強制された。
バッチの色の黄色は差別としての色で、
裏切り、貪欲、欲望、不忠実、怠惰を表すという)

このような図像に親しみ、受難劇に参加した民衆が
ユダヤ人感情をつのらせていく。
教会教父などのキリスト教知識人よりも、
むしろ民衆の意識の中に、ユダとユダヤ人を同一視して、
ユダをユダヤ人の代表として憎しみの対象とする傾向が強く残っていった。
中世のキリスト教の図像では、
悪魔がユダヤの帽子など
ユダヤ人の身体的特色をもつものとして描かれることがあったり、
ユダヤ人が地獄へ突き落とされる悪魔として描かれたという。


ユダヤ人たちが受けたさまざまな迫害は、
神が与えた罰と理解され、
ユダヤ人は、背信の罰として神の庇護なくして全世界に離散し、
軽蔑、愚弄、嘲笑の対象とされた。

後になると、ユダヤ人の富は悪魔から手に入れたものと信じられたほど、
ユダヤ人と悪魔は切り離せないイメージとなった。



6世紀以降、
ユダヤ人がキリスト教徒の子どもを釜に入れて焼き殺すという伝説が流布した。

また、中世には、
次のような「さまよえるユダヤ人」の言い伝えが広く流れた。

十字架を担ぐイエスは、ローマ兵のたちの手でゴルゴダの丘へ引っ張られて行くとき、途中いあわせたユダヤ人の男によって打たれ、こづかれた。
するとそのときイエスは男に向かって、
「わたしは進んで行くが、おまえはわたしが戻るまでさまよう」と言った。

ユダヤ人はキリスト受難の証人としてキリスト再臨のときまで、
永遠にさまようことを運命づけられる。
この「さまよえるユダヤ人」の物語はヨーロッパで広く語り継がれた。
「さまよえるユダヤ人」は、
さまざまな国で、さまざまな民話を生み出し、
子供の世界にも入り込み、彼らにユダヤ人恐怖やユダヤ人憎悪を植えつけた。
大きな嵐や疫病の原因までもが、
「さまよえるユダヤ人」が潜んでいるからだと教えられ、語り継がれた。

キリスト教の反ユダヤ人感情は、
ユダヤ人に対する侮蔑を説く教会の教えの中に端的に表れている。
5世紀のアウグスチヌスから16世紀のルターまで、
優れたキリスト教の進学者の中にも、
ユダヤ人を神に対する反逆者であり、
神の殺害者だと非難する者が数多くいたという。


中世のヨーロッパでは宗教が、
経済、社会、政治的な面にまで影響を及ぼしていた。
11世紀末に、十字軍がヨーロッパ大陸反ユダヤ主義の嵐を巻き起こし、
ユダヤ人は幾度となく、イギリスやフランスから追放され、
1492年にはスペインからも追われた。

5世紀から12世紀のあいだに、
ユダヤ人は、くりかえし組織的虐殺の対象にもなった。
キリスト教徒のユダヤ人に対する憎しみは、
彼らがキリストを殺したという罪に対するもので、
この大罪のゆえに、キリスト教徒がユダヤ人に何をしようとも、
その行為は正当化された。

14世紀の黒死病(ペスト)大流行の頃から、
黒死病をもたらす者はユダヤ人として、
ユダヤ人の大量虐殺を行われたという。

その後、ユダヤ人に対する弾圧として、
ヨーロッパ中で隔離政策が取られるようになっていき、
1516年には、ヴェネチアに、
最初のユダヤ人ゲットーと呼ばれる居住区が作られ、
強制隔離されることが一般化した。
そのため、宗教的アイデンティティが強固になり、
ユダヤ教共同体の慣習は強まっていく。

しかし、ユダヤ人は社会的弱者に甘んじながらも、
主に経済の分野で重要な役割を果たしていった。
近代以前のキリスト教は、信徒に高利貸しを営むことを許さず、
一方ユダヤ人は土地の所有を許されていなかった。
そこで、ユダヤ人は金貸しや商人になることが多く、
社会の一員になることを許された大都市では、
豊かな生活をおくるものも出てきた。
11世紀末頃には、
すでにユダヤ人は「高利貸し」の代名詞になっていたという。
一方、裕福になったユダヤ人はねたまれ、
ユダヤ人迫害はますます強まっていった。





次回につづく


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