大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

独裁者(10)

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まだ続いていた「独裁者」の時代



*以下は「ホロコースト全史」「反ユダヤ主義の歴史」、各国史などの
本を参考に概略をまとめた。


反ユダヤ主義の背景 2>

1789年のフランス革命まで、
ユダヤ人はヨーロッパでは弱者で、よそ者として排他的な扱いを受け、
人権も認められていなかった。
ユダヤ人が市民的自由権を与えられたのは
1791年、フランスで人権宣言が発せられた2年後であった。
だが、同時にユダヤ人たちは、
一般社会への同化を求められるようにもなっていく。

ナポレオンのドイツ征服により、
ユダヤ人の立場はドイツでも改善されたが、
ナポレオンの敗北とともに、ユダヤ人の法的平等も終わった。
法的平等が再び保障されるのは、
ビスマルクドイツ統一を果たしたあとである。

18世紀以降、
啓蒙主義の浸透によって解放されたユダヤ人の社会的地位向上と西欧社会への同化が進むにつれて、
反ユダヤ主義は宗教的なものから民族・人種的なものへと変質し存続した。

やがて、19世紀後半になると、
ユダヤ人の同化と地位向上によって、
ユダヤ人問題」の根本的解決を訴える論調が盛んになり、
社会ダーウィニズムに基づく疑似科学的な人種論によって
組織的なユダヤ人迫害への理論的な基礎が置かれた。


オーストリア・ウイーン>

ウィーンでは、1848年
フランスの二月革命の影響を受けたドイツやオーストリア三月革命
メッテルニヒが失脚してから、
ユダヤ人のウィーン流入禁止令が解除され、
ハンガリーやボヘミヤ、分割されたポーランドから
大量のユダヤ人が流入するようになった。
その結果、反ユダヤ主義中欧から全ヨーロッパに広めることになった。
革命をリードした自由主義者や急進派にはユダヤ人が多く、
彼らは「ユダヤ人解放」を目的の一つに掲げたため、
保守的な人々が
体制の破壊者としてユダヤ人を見るようになってきたからである。
また当時、急速に普及しつつあった新聞などのジャーナリズムにも
ユダヤ人が多く、右翼によるメディア批判が行われるようになる。

さて、メッテルニヒの時代ですら、
ユダヤ人財閥ロスチャイルド家は、
莫大な資金をハプスブルグ家に融通していた。
そのため、1867年オーストリア・ハンガリー帝国
ハプスブルク皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は
自由主義を受け入れる憲法を発布し、
伝統的な反ユダヤ主義を変更し対ユダヤ人融和策をとり、
ユダヤにも同等の権利を認めることを決意し、
職業・結婚・居住などについてユダヤ人に課せられていた各種制限を撤廃したといわれる。
17世紀から19世紀まで、
国際商取引網や金融力をもつユダヤ系金融資本家は、
各国の王侯や貴族に戦費や軍事物資を調達したり、
国家財政の資金を融資していた。

チャップリンの映画「独裁者」で、
独裁者ヒンケル
侵略戦争資金の調達をユダヤ人資本家に依頼しているほんの一時期だけ、
一転、突撃隊とユダヤ人が談話するなどユダヤ人融和策をとったが、
資金調達を拒絶されると急転し、
さらにはげしくユダヤ人迫害の政策をすすめていく場面があったが、
おそらく、こうした過去の支配者とユダヤ系金融資本家との歴史的関係を
反映しているのかもしれない。


さて、その後、ウィーンのユダヤ人口増加と社会的地位向上はめざましく、
ドイツ人との同化がすすんだ。
ウィーンでは、1870年に6.6%だった都市人口に占めるユダヤ人の割合が、
1890年には11%にまで増大したといわれる。
世紀末ウィーンの文化の担い手には、こうしたユダヤ系の人々が多かった。

1873年のウィーン万博の年に、ドイツやオーストリアでは、
ウィーンの金融恐慌に端を発した大不況を背景に、
下層中産階級経済が基盤となって、
経済を牛耳るユダヤ人が恐慌を通じて国民の富を吸い上げている
という反ユダヤ主義運動がかなりの規模で展開された。

恐慌の後でも、ウィーンへのユダヤ人の流入は止まらず、
ウィーンにおけるユダヤ人の影響力もますます増大し、
商業従事者、銀行家、工業経営者、弁護士、医師、ジャーナリストの多くが
ユダヤ人であったという。

このとき、反ユダヤ主義のリーダーは
政治家ゲオルグ・シューネラーであった。
彼は若きヒトラーにもっとも影響を与えた人物である。
オルグ・シューネラーの始めた運動は、
ユダヤ人のキリスト教改宗による同化をめざす「宗教的反ユダヤ主義」ではなく、
ユダヤ人から職業選択、交際、居住、結婚の自由などの権利を奪う「人種的反ユダヤ主義」(反セム主義)であった。
1882年に汎ゲルマン主義のドイツ民族連盟を組織し、
1901年国会選挙で21議席を獲得する。

また、ウイーンでは、
1893年キリスト教社会党を創設したカール・ルエーガーは、
1897年、選挙運動でユダヤ人排斥による社会改革を訴え、
市長に当選した。

このころ、
ロシアから貧しいユダヤ人が大量にウィーンに流入するようになり、
市内に浮浪ユダヤ人が目立つようになっていく。
このとき、画学生としてウィーンで青春時代を過ごしたのが
若きヒトラーであり、カール・ルエーガーの演説にも感動したという。
やがて、ヒトラーは、
オーストリアではユダヤ人が実業界、法曹界、ジャーナリズムなど多方面で高い地位を占めており、
シオンの長老がマルクス主義と結託してドイツの破壊をもくろんでいると考えた。
彼は多くのドイツ人がそうであるように、富裕ユダヤ人に対する憎悪を募らせていく。


<ドイツ>

1812年の「解放勅令」以後、ユダヤ人の解放が進むなかで、
現実には彼らの差別をめぐる問題が顕在化しつつあった。
1848年革命とそれに続く時期には南ドイツの農村地域では、
最初の大規模な反ユダヤ主義の運動がみられた。
ここの農民たちは、
自分たちに敵対する資本主義の具体的な姿をユダヤ人に見出していた。
1860年代には、
ジャーナリズムにおいても急進的な反ユダヤ主義宣伝が登場した。
1871年ドイツ統一以後、
73年の恐慌ののちに反ユダヤ主義の運動が都市にも出現した。

資本主義の展開にともなう経済危機によって、
自立的な手工業者、中小商人などが没落の危機にさらされ、
彼らは没落の原因を取引所あるいは
銀行と同一視されたユダヤ人に求めようとした。
ユダヤ人の「ぼろい商い」「高利貸し」が
ドイツ人のまじめな労働を圧迫していると、
自分たちが落ち込んだ苦境からの脱出口を反ユダヤ主義に見いだした。
反ユダヤ主義は、現状批判、社会改革への要求と結びつけられて
力を増してきた。

ユダヤ人の目ざましい経済、学術、文化、芸術等での分野での活躍、
ワイマール時代における政界も含めたユダヤ人エリート層の形成は、
よそ者としてのユダヤ人に対する警戒心、恐れ、嫉妬、敵対心、憎悪を
高めていった。


第一次世界大戦後の反ユダヤ主義は、
ドイツ最初の共和制の国家であるワイマール共和国
(彼らにとっては「ユダヤ人共和国」)打倒をめざす運動になり、
ワイマール民主主義とヴェルサイユ体制が攻撃の対象となっていく。
旧秩序の瓦解、君主制の解体、革命、敗戦、インフレという大きな混乱が、
ドイツの人々に与えた衝撃と危機感は容易に解消されず、
この時代の反ユダヤ主義運動は、
変革の清算と革命勢力の除去をめざしていく。
ユダヤ人はワイマール憲法を通じて、完全な市民的同権化を勝ち取ったが、
社会ではいっそう執拗になった反ユダヤ主義に直面されることになった。

1919年ドイツ労働者党が創設され、
1920年、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と改称された。
綱領には、すでにユダヤ人排斥方針が明示されていた。
1924年の口述筆記されたヒトラーの「わが闘争」には、
ドイツの生存圏の拡大や優勝劣敗の社会進化論から、
人種間の闘争が歴史の動因であるとする「ユダヤ人根絶」までみすえた
人種政策が語られていた。
そこでは、
第一次世界大戦のドイツ敗北の原因がユダヤ人そのものにあるとし、
ドイツ崩壊の邪悪な病原体であると指弾する。
ドイツの労働者を腐敗させる左翼政党、金融資本、国民経済空洞化、
議会主義、自由主義新聞、平和主義、知識人もすべて、
ユダヤ人の道具・手段であると説く。
「わが闘争」では、ユダヤ人は殲滅されるべき絶対的敵にされ、
このユダヤ人との闘いを望まない者も生きるに値しないとされている。
ヒトラーが考える究極の世界は
「われわれ=民族共同体だけが生き残ることが許され、あとはユダヤ人=悪魔か、生きるに値しない者」であった。





(次回へすぐつづく)


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