大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「満州」語録 1

イメージ 1

イメージ 2

*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上「大連大広場」
下「大連ヤマトホテルと大島閣下の銅像


・・・・



昭和21年7月、
私の両親と二人の姉、兄は満州から「内地」へ引き揚げてきた。

下の立松和平と同じ立場であった私は、
約30年前、
旧「満州」(中国東北部)と
何らかのかかわりをもった人などが書いたものを読み、
その写しを記録していた。



日本人にとって、「満州」とは何だったのだろうか・・・・
「植民地」とか「侵略」という意識は、なかったのだろうか・・・
「故郷」とは何か?・・・・
そんなこだわりが何年たっても、私の頭から離れなかった。

以下は、旧「満州」(中国東北部)と
何らかのかかわりをもった人(一部満州以外の中国含む)が
戦後に文章として残した語録(抜粋)で、
すでに、故人になった人が大半である。
エッセイあり、小説あり・・・・
人によっては、ほとんど関心がもてない、
退屈で、おもしろみのないものかもしれないが、
何回かに分けて少しずつ紹介したい。

<注>あえて、終戦直後の「引き揚げ」の具体的な体験記録は除く。
また、段落などは、画面上で読みやすいように一部調整した。





●『37年後の満州』 立松 和平

私の父は中国からの引き揚げ者である。
・・・
昭和二十二年生まれの私は、
当然ながら満州国も敗戦直後の混乱も知らない。
・・・
引き揚げ者の子供にとっての世界のできはじめの創世神話には、
満州が大きな位置を占める。
満州帝国は、明らかに日本帝国の中国侵略である。植民地である。
しかし民衆レベルで見るなら、
一方的な流れではあったにせよ、巨大な交通であった。
日本史上であれほど大規模な交通があっただろうか。
満蒙開拓団の無残な失敗は
世界移民史上でもかってない惨劇を演じることになる。
シベリア抑留も、凄惨な引き揚げも、民衆の交通である。
・・・・
わずか三十数年前(kemukemu注:この文章の執筆は昭和57年)、
私たちの親の世代の出来事なのだ。
・・・
列車の中で団員たちは言葉が噴きようにこぼれるように話すのだった。・・・
戦後いわばレールの上を走ってきた世代の私にとっては、
彼らは一人一人がたいへんな歴史を背負っていた。




●『二十歳のエチュード』(昭和23年)  原口 統三

大連よ。アカシアの苛烈な花々に満ちあふれた六月の植民地よ。
緑山の頂き荷は海風が舞ひ、高台の上では巨大な病院が健康な眠りを貪り、
荷揚げ波止場の支那語の叫喚に包まれ、
酒場の地下室からはロシア語の合唱が聞え、
さうして、舗装道路の両側につつましく並んだ小奇麗な洋館の窓蔭では、
黄色い皮膚をした知識人が、畳の上でドイツ語を読んでいる。
かつて、この港の桟橋に立って、僕の少年らしい魂は、
遠い行く末を美しく夢みたのだった。
大連よ。
戦争が、お前と僕を隔離した。





・・・・・・・・