大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「満州」語録 2

イメージ 1

イメージ 2

*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上 「大連駅」
下 「大連 満鉄本社」



●『アカシヤの大連』 清岡 卓行

彼は、自分が日本の植民地である大連の一角に
ふるさとを感じているということに、なぜか引け目を覚えていた。
もし、このことを他人に聞かせたら、
恥かしい思いをすることになるのではないかと不安であった。
・・・・
彼はふと、自分が大連の町に切なく感じているものは、
主観的にはどんなに<真実のふるさと>であるとしても、
客観的には<にせのふるさと>ということになるのかもしれないと思った。
なぜなら、彼の気持は、大連のほとんどの日本人からみれば、
愛国心が欠乏しているということになるだろうし、
土着の気骨ある中国人たちから見れば、
根なし草のたわごとということになるだろうと想像されたからである。
・・・・


●『海の瞳』 清岡 卓行

植民地に生れ、そこで育った子供たちにとって、
故郷とはいったい何であったのだろうか。
それは、物心がつくにつれてようやく漠然と意識されてくる、
奇妙に引き裂かれた生活のよりどころであった。
はじめから見えない大きなひびがいくつもはいっている、
懐かしい町々であった。
それはまた、ほとんどの場合、
両親が自分の故郷として海の彼方の祖国のどこかに感じているものと、
まったく事情を異にするという意味において、
いわば世代的な孤独の感じを、
生れながらにして帯びさせられているものであった。
そうした植民地の子供たちは、
日本の歴史において、きわめて特異な、
そしてたぶん、まことに哀れな世代であっただろう。
というのは、故郷の意識において、ほとんどの場合、
そのように両親と断絶していたが、
やがて第二次大戦における祖国の敗北を境として、
今度は自分が父親か母親になるとき、
皮肉にもその子供たちの故郷は、
ふたたび日本のどこかに戻っており、新しい親子のあいだには、
昔とは逆の形の断絶が生じることになっていたからである。
つまり植民地の子供たちの故郷は、
日本の歴史の流れから、横の方へ、
無残にもほうり出されてしまっているのだ。
戦争における祖国の勝利と敗北という、
求めもしなかった二重の野蛮な枠の中に、
がんじがらめにはめこまれながら。
原口統三と彼にとっても、故郷と呼ぶに値するものは、
今日ではもう幻の都市と言うよりほかはないような一つの空間、
かつての大連にしかなかった。・・・・・






・・・・・・・・