大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「満州」語録 3

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*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上 「奉天 浪速通り」
下 「奉天 春日町通り」



●『楼閣に向かって』 池田 満寿夫

洪水はいつも恐ろしい速さでやって来た。
濁流が城壁の街の通りを一瞬に駆け抜け、
泥土と瓦礫と犬の死体と、時には人間の死体とを残していった。
死体になるのはいつも青い木綿の服を着た現地人の苦力たちだった。
・・・・洪水は確実に夏の終りにやってくる。・・・・・
夏になると城壁の内部に住む人間と
外部に住む人間との歴然とした差別が生じた。
城壁の内部は黄色の砂塵から守られはしたが
蒸風呂の底からわきあがってくる不衛生と名のつく総ての弊害に
悩まされねばならなかった。・・・・
もっともそうした眺めはもう少しも珍しいことではなかったが、
そうかといってこちらもなかなか同化出来るものでもなかった。
絶対に危害を加えないという保証はなにもなかったからだ。
いつかは謀叛を起すだろう。
<少年>にはそれがいつだかは解らなくても、
なんとなくこの次の洪水のあとのような気がしたのだ。・・・・


●『私のなかの満洲』(「満洲昨日今日」所収) 池田 満寿夫

 満洲体験といっても私の場合はほんのわずかな幼児体験だけである。
だが十二歳まで中国に暮していたので、満洲と他の地域との記憶が重複し、
大きな場所をしめている。・・・・
 満洲に生れたのは私の選択ではない。
中国から引揚げたのも私の選択ではない。
私が画家になろうとしたのも、中国に住んでいたからではない。
 三十代のはじめから私は再び外国で暮すようになり、
四十代の後半にまた日本に定住するようになった。
合計すると五十年の間のほぼ半分は外国暮しであった。
外地に生れたからであろうか。
そうとも言えるし、そうとも言えない。
 だが、今でも記憶のないはずの満洲の夢をよく見る。
夢のなかで満洲の原野をさまよっているのである。





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