大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「満州」語録 5

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*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上 「大連 小崗子の街景」
中 「大連 甘井子石炭埠頭」
下 「邁進するアジア号列車」




●『植民地少年』 千田 夏光

この「租借地」で私は生まれた。
そして、そこで生まれ
乳児期、幼児期から少年期を過ごしたことが私の人生の原点になった。
日露戦争の結果としてオカドチガイの中国から、
言葉は「租借」だが実質はムシリとる形で
この「関東州」なる大陸の一角を手に入れたとき、
日本ははっきり侵略主義国家として世界へ名乗りをあげるのだが、
その或る意味では「運命の地」とも呼べる所に生まれたことが、
幸か不幸か日本の中国侵略に普通の人と違う視点をもたせた。
・・・・
いま振りかえりその記憶のひとつひとつを思いおこし分析していくと、
そこにあるのは、ちんぷな言葉だが、
やはり悲痛なまでの日本人の思いあがりであろう。・・・・
中国人はなにもこの花岡鉱山にだけ強制連行されてきたのではなかった。
日本の名の知れた港湾、炭鉱、鉱山、あげていくとすべてであった。・・・・それなのに、日本内地人はさておき、
植民地に生まれ育ち大人になった「植民地少年」で、
このことを知っている者は皆無に近い。
それは仕方ないとしても、話しても「戦争だったからなあ」で終る。
思い出すのはアカシアかおる街であり、
残飯少年の上にあぐらをかいていたことを知ろうともせずに
語る包子の味でありサンザシのことだけである。
酒席で「麦と兵隊」を合唱しながら、
日中友好を叫ぶ人たちと違わないのである。・・・・
いったい日本(人)にとって、
私にとって「あの植民地」はなにを残したのだろう。
なにを今日に語りかけているのだろうと考えこんだりするのである。・・・
それにしても思い出すのが痛みばかりであるとは、
植民地少年はとは悲しいものである。
思い出をひろげて祖国である日本の恥部にばかりつきあたるとは、
これも悲しい存在である。・・・
私は植民地における甘美な生活にひたっていると、
被支配者の苦しみ悲しみが、いかに見えなくなっていくかと、
その見えなくなったときのこわさをいやというほど見てきた。




●『ぼくの憂き世風呂』田村隆一との対談から  山田 洋次

ぼくの原体験では、まっすぐのびているのがレールなんです。
そのレールがのびていて、
その、のびているレールの上を走っているのが客車なり、貨車であって、
その行くさきが、ま赤な太陽の落ちて行くところまで
レールがのびていて・・・・ぼくがやっとたどりついたのは、
「幻のふるさと」で・・・・。
正直に言いますと、
ぼくにとって「幻のふるさと」はどこだっていいのです。・・・
ぼくは、ぼくなりに、「幻のふるさと」をつくりたかった。
この葛飾の柴又に、
男はつらいよ」の世界がそのまま生きていると思うのは、
映画のお客さんの錯覚で、
ええ、それはロケ地にはちがいないのですが、
あの柴又は、ぼくたちの、
つまり映画のお客さんの、ひとりひとりの胸のうち、
心のなかにある土地なのではないでしょうか。・・・





・・・・・