大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「満州」語録 6

イメージ 1

イメージ 2

*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上 「奉天駅頭の雑踏」
下 「星ケ浦公園 後藤伯の銅像」(大連近郊)




●『満州の思い出』(「昭和の歴史」から) 早乙女 貢

わたしたちは、「満州」で生まれ、
満州」で育つことに喜びを感じていた。
建設途上の国の若い息吹が、黄土にあふれていた。・・・・
そのころのわたしたちは王道楽土を信じていたようである。・・・・
希望の大地であり、未来の大地だった、その王道楽土を信じていたのは、
あとから思えば、信じ込まされていたにすぎないのだろうが、
五族協和ということばには、なんの疑問を感じる余地はなかった。
満州国家」が成立してから多くの日本人が「渡満」してきたが、
そういう人の気持ちは、どこに真意があったのかわからない。
侵略の意識があったのか、政府の八紘一宇のスローガンを信じていたのか、
それぞれの思いで「渡満」してきたのだろうが、
ハルピンで生まれたわたしには、
侵略という意識をもてないのが当然だったかもしれない。・・・



●『もうひとつの満州』 澤地 久枝

日本へ帰ってから、私はずっと違和感のなかを生きていたと思う。
自分がいるべき場所はここではない。そう真剣に思っていた。・・・・
東京生まれの日本人でありながら、
日本は私にとっては異郷であった。・・・・・
故郷を追われ、「たたかいつつ家郷に帰らん」と歌いながら、
日本とのたたかいを継続していた東北出身の中国人の存在を、
私は、このときはじめて知った。
彼らの望郷の思いは私にはわかりすぎるほどである。・・・・
私は「満州時代」を懐かしむことを自分に禁じた。・・・
それまでも、
難民生活や引揚体験の苦労話を口にすることを私は好まなかった。・・・・・
しかし、なぜ難民生活があり、
なぜ引揚げがあったのかを考えるようになれば、
とても「苦労話」など話せなくなった。・・・・
「わが家は東北、松花江のほとり」・・・
あの歌に託された人々の心情、
そして楊靖宇に代表される生と死をぬきにして、「満州」は語れない。・・





・・・・・・