大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「満州」語録 7

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*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上 「奉天 大広場とヤマトホテル」
下 「奉天 満洲人街城壁の一部」



●藤堂 明保

中国人は「満州」ということばを聞いただけでも、
ただちに脂ぎった赤ら顔の日本軍人が、軍刀をじゃらつかせて、
わがもの顔に横行する姿を思い起こす。・・・
だからかれらは必ず東北といい、絶対に「満州」とはいわない。・・・
いわゆる「満州」におもむいて「ああなつかしい!」と連呼したところで、
それは個人の感傷を満足させるだけで、どれだけの前進的な意味があろうか。むしろ逆に中国人を怒らせ、
日本人が「夢よもういちど」と虎視眈々と「満州」をねらっている、
そのいやらしさを肝に銘じて感得させるだけだろう。
じつをいうと私自身が小学校も中学校もかの地ですごしている。
一木一草もなつかしい。
だから『アカシアの大連』などという書物が出版されると、
なんとはなしに郷愁をそそられる。
それをおさえようとして、心のなかが憂うつになる。・・・・



●『戦後思想を考える』 (1980年) 日高 六郎

青島は美しい街だった。・・・・
私の幼い記憶のなかで、青島と日本軍とは交錯している。
その交錯は、私の思想の出発点である。・・・
侵略軍隊は、ほとんど必然的に残忍になる。
また植民者もほとんどが利己的で傲慢になる。
それが歴史の必然というものだ。・・・・
私自身は依然として侵略責任の問題は、
日本の知識人にとってもっとも深い思想的問題だと考えているものだ。・・・
かって植民地主義を遂行した人間が、
いま日本の政治的指導者となっているが、
そうした政治指導者をえらんできた日本国民の責任もまぬがれまい。
そしてその責任とは、やはり私たちの大半が、
かっての植民地国の民衆の苦痛を、八・十五を通過してさえ、
なおほとんど理解していないということと無関係ではないと思う。
そのように私が考えるのは私の経験と記憶のなかに、
中国が、そして戦争が強く残っているからである。



●『ぼくは戦争をみた』 横山 孝雄

大人たちは、中国人を戦争に負けた弱虫でいくじなしとして、
バカにしていたから、子どもにまで、そんな気持ちがうつって、
中国の子どもたちをバカにしていた。・・・
彼ら警察官は、ぼくの父もふくめて、自分たちがやっていることは、
日本のため、正義のため、そんなことをしても、
とうぜんだと信じていたのだろう。
目的のためには手段をえらばないで、平気でやっていたのに、ちがいない。
ただ、ぼくたちは、なにもわからない子どもながら、
ありのままをみてしまい、
それはしっかりと、心の中に印象づけられてしまった。
おおげさにいうならば、
歴史の目撃者ということになるかもしれない。・・・・
・・・・この事件で、ぼくたちは、中国人の日本人に対する、
深い反感を、あらためて思いしらされたのだった。





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