大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「満州」語録 10

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*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上 「吉林市街全景」
下 「ハルピン駅」




●『戦後生まれの正義感』 遠藤 満雄

・・・満州にいた大部分の日本人がそうであったように私の父母もまた、
中国を侵略する、というような意識や感覚はどこを捜しても見当たらない。
父のほうは曲がりなりにも関東軍の兵士なのだから、
全体の機能としてはまぎれもなく満州支配の武力装置であり、
その装置を構成する歯車の一つであった。
しかし歯車であるが故に、全体を見渡すことなどできようはずもなく、
自分がなぜ満州に連れて来られたのかと疑問を感じ、自らの頭脳で考えたり、調べたりするほどの素養も持ち合わせてはいなかった。
・・・私自身が満州という地で生まれた、ということと同時に、
わが家の歴史もまた満州を原点として始まっていること、
この個人的な環境は私とともにある。
両親が満州に求め、培い、そして裏切られたものは、
私にとってもまた追体験しなければならないものだし、
私より若い世代、子供たちにも語り継ぎ、
追体験させておかなくてはならないはずのものだ。・・・・
満州事変から日中戦争、太平洋戦争に至る十五年戦争の敗戦を
「勝負は時の運」式にとらえ、
その敗戦の本質を見極めようとしない無反省な輩が
いまなお数多く生き残っている。
・・・この戦後生まれの世代の中に、
Kさんと同質の日本の優越主義、言葉をかえれば蔑視感がないだろうか。
大東亜共栄圏」の盟主たらんと妄想した驕りは、
戦後世代の中から完全に消え去っただろうか。
満州は戦後長い間、語ることがタブーであった。
中国を慮って「満州」という単語そのものが死語となった。
でもそれが逆に戦後の日本人に「満州」を考えさせる機会を
失わせてきたともいえる。
満州での悲劇は単に犠牲者としての悲劇ではない。
長い間、日本人が加害者であったことによってもたらされた悲劇である。



●『「満州」とはなんであったか』(『満洲昨日今日』所収) 香内 三郎

・・・・私どもの多くにとって、「内地」は全く未知の世界、
いくら父母の話を聞き、学校で「習って」も、
現実感のない世界だったから、
どんなに困苦が大きくとも既知の世界に「残留」しようかな、
と考えなかったわけではない。
が、親の世代は、どんなに渡満年数がながかろうと、
すべての「特権」を失ってからは、
一日でも早く「内地へ帰る」ということで、意識をいっぱいにしていた。・・・・・
ともかく、私たちの「満州」経験はなんとなく締めくくりがつかず、
宙に浮いている。
・・・・風景に過去の足跡が残っているのも、
もうしばらくの間かも知れない。





・・・・・・・