大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「むかし Mattoの町があった」 (1)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/


イタリア精神保健改革の最初の20年を描いたイタリア映画で、
イタリア語でmattoは「狂気をもつ人」、
「Mattoの町」は精神病院を意味するという。

イタリアの国営テレビ放送RAIが作ったこの3時間の大作は、
2010年2月7日(日)8日(月)の夜9時10分から
約1時間半ずつ二夜連続で放映され、
21%以上の高視聴率をとったといわれる。


映画は、イタリアの精神科医フランコ・バザーリアが
1961年にゴリツィア県立精神病院に赴任、
次いで1971年トリエステ県サン・ジョバンニ精神病院に赴任、
そこからトリエステの改革が始まり、
イタリア精神保健改革の象徴である1978年の
精神病院廃止法(180号、別名バザーリア法)の成立までを描いている。


この実話の舞台は、トリエステである。
しかし、なぜトリエステだったのだろうか。

故・須賀敦子は、
その著作『トリエステの坂道』で、トリエステは、
「イタリアにとっては文化的にも地理のうえからも、
まぎれもない辺境の町である」と書いている。

そんな須賀敦子がこだわりつづけたイタリアの詩人、
ウンベルト・サバは、1883年、トリエステに生まれ、
第二次世界大戦のあいだの数年をのぞいて、
ほとんど一生をこの町で暮らしたという。

サバには、「三本の道」という詩がある。



三本の道


トリエステには、閉ざされた悲しみの長い日々に
自分を映してみる道がある、
旧ラッザレット通りという名の。
救貧院に似た、どれも同じな古い家屋のあいだに、
ひとつ、ただひとつだけ、明るい調べが。
海が、交差する何本かの道のつきあたりなのだ。
生薬とアスファルトが匂う道、
人気のない倉庫のむかいには、
網や、船舶に使う
縄を商っている。ある店の看板は
一本の旗。中では通行人に背をむけ、ふりむきも
しないで、血の気のない顔の女たちが、
とりどりの国旗の色のうえに
かがみこんで、人生の苦悩の持ち分を
減らそうとしている。無辜の囚人たちは
暗い顔で陽気な旗を縫う。

悲しいことも多々あって、空と
街路の美しいトリエステには、
山の通り、という坂道がある。
とばくちがユダヤの会堂で、
修道院の庭で終わっている。道の途中に小さな
聖堂があり、草地に立つと、人生のいとなみの
黒い吐息が聞こえ、そこからは、船のある海と、岬と、
市場の覆いと、群集が見える。
それから、坂の片側には、荒れはてた
墓地。ぼくの記憶にあるかぎり、
絶えて、葬式も、埋葬もない、
ユダヤ人墓地。そこにいるのは、
ぼくの想いにとって大切な、
苦労を重ね、商売にあけくれて、
葬られた、たましいも
顔も同じな、ぼくの先祖たち。

山の通りは聖なる思い出の道だが、
歓びと愛の通りは、
ドメニコ・ロッセッテイ街。
街はずれの、緑につつまれたこの通りは
日一日と色褪せ、
街らしくなり、田舎を忘れるが、
よかったころの魅力も、まだ、残っている。
散在する、むかしに建った家と、
数すくない並木。
すべての窓が開かれている夏の夕べに、
ここを散歩すると、どの窓も見晴らし台で、
縫い物をしながら、本を読みながら待っている。
ここなら、愛するひとが、もういちど、
むかしながらの人生の愉しさに、花ひらき、
彼を、彼だけを愛してくれるかも知れないと思う、
わが子には、もっと薔薇色の健康を、と。


(『ウンベルト・サバ詩集』 須賀敦子全集第5巻より)

*無辜(むこ):罪なき





次回へつづく・・・・・・・