大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (2)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/



「三本の道」を書いた詩人、
「サバの母親はユダヤ人であった。
彼の出生以前に両親の結婚は破綻をきたし、母親は、
「美しくて軽薄な」白人の夫に棄てられたかたちで、
幼いサバは、この町のゲットーで育てられた。
若くして職につき、自らの生計をたてねばならなかったサバは、
自分の中に流れるユダヤ人の血に深い愛着を持ち、
すすんで父親のイタリア名を棄て、
ヘブライ語でパンを意味する、サバというペンネームを選んだ。」
須賀敦子全集第5巻より)



ふたたび、サバの詩「トリエステ

トリエステ

街を、端から端まで、通りぬけた。
それから坂をのぼった。
まず雑踏があり、やがてひっそりして、
低い石垣で終る。
その片すみに、ひとり
腰を下ろす。石垣の終るところで、
街も終るようだ。

トリエステには、棘のある
美しさがある。たとえば、
酸っぱい、がつがつした少年みたいな、
碧い目の、花束を贈るには
大きすぎる手の少年、
嫉妬のある
愛みたいな。
この坂道からは、すべての教会が、街路が、
見える。ある道は人が混みあう浜辺につづき、
丘の道もある。もうそこで終りの、石ころだらけの
てっぺんに、家が一軒、しがみついている。
そのまわりの
すべてに、ふしぎな風が吹き荒れる、
ふるさとの風だ。

どこも活気に満ちた、ぼくの街だが、
悩みばかりで、内気なぼくの人生にも、
小さな、ぼくにぴったりな一隅が、ある。

(「ウンベルト・サバ詩集」須賀敦子訳 )


須賀敦子の『ミラノ霧の風景』という本の
「きらめく海のトリエステ」によると、
サバのうたった「三本の道」のひとつ「山の通り」は、
ユダヤ人墓地があった道で、1700年代まで、
「絞首台通り」とも呼ばれて、処刑場があったという。

また、「旧ラッザレット通り」と呼ばれる道については、
「ラザレットというのは、救貧院とでもいうのか、昔、医療費を払えない人たちや行きだおれなどを収容した建物である」
と書いている。
しかし、同じ須賀敦子のその後の著作『トリエステの坂道』では、
旧ラッザレット街について、
「ラザレットという名は、キリストによって死からよみがえったラザロという青年に由来するもので、元来は伝染病、とくにペストが蔓延した時代に病人を隔離するために建てられた、貧民病院のような施設だった。」
としている。
「ラザレット」の性格の記述について、
微妙なニュアンスのちがいがあるが、
いずれにしろ、隔離・収容という性格をもつ施設であったのだろう。


さて、
パルチザン日記1943-1945」(アーダ・ゴベッティ著)を解説した
戸田三三冬によると、
1943年9月9日、連合軍はサレルノに上陸、ナポリ攻撃作戦に入り、
一方、ドイツ軍は、ナポリ以北のイタリア占領作戦を発動し、
10日、ローマ、ミラノ、トリーノを占領した。
「9月8日」の数日のうちに、イタリアは、
来るべきドイツ軍の攻撃を恐れて首都ローマを見捨て、
南イタリアに逃れた国王とバドリア政府が存在する南部の
英米連合軍占領地域と、
中・北部のドイツ軍占領・作戦地域との二つに分断されることになった。
そして、ユーゴスラヴィアに近い国境地帯のボルツァーノ
トレントトリエステなど9県はドイツ軍の直接統治地域となった。
60万人のイタリア兵がドイツに連行され、北イタリアの工業は、事実上、
ドイツの軍需産業網に組み込まれたという。


トリエステ生まれのユダヤ人であった詩人ウンベルト・サバが、
第二次世界大戦のあいだの数年をのぞいて」、
ほとんど一生をトリエステで暮らしたという事情が
おそらく、ここにあるのだろう。

1943年9月9日には、「国民解放委員会」(CLN)が、
共産党社会党、行動党、自由党キリスト教民主党、労働民主党
六政党の代表により設立され、次の声明を発表した。

「現在、ナチズムがローマとイタリアにおいてファシスト同盟軍を再建せんとしつつある時、反ファシスト諸政党は、イタリア人に闘争とレジスタンスを呼びかけるため、かつイタリアに、自由な諸国民の集いのなかで適切な地位を取り戻すため、ここに国民解放委員会を設立する。」

これ以後、都市や地域にレジスタンスの
自治的な政治・軍事指導組織としての国民解放委員会が作られていった。

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トリエステの精神保健改革の背景をさぐるには、
こんなトリエステやイタリアの歴史を知る必要があるのかもしれない。


既成の制度への抵抗運動としてのトリエステの精神保健改革、
武器を使わない戦後のパルチザン的な闘争の面が
あるような気がしてならない。





(つづく)