大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「むかし Mattoの町があった」 (4)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/



須賀敦子は、
イタリアのトリエステに住む人々の心情やトリエステの文化の複雑さを、
つぎのように書いている。

・・・・・・・
 ユーゴスラヴィア(クロアチア)の内部に、細い舌のように食い込んだ盲腸のようなイタリア領土の、そのまた先端に位置するトリエステは、先史時代から中部ヨーロッパと地中海沿岸の諸地方を結ぶ交通の要所だった。というのも、紀元前二千年すでに、バルチック海沿岸の琥珀ギリシアやエトルスクの諸都市に運ぶ、≪琥珀の道)≫と呼ばれた商業路のひとつが、トリエステを通過していたといわれる。さらに中世以来、オーストリア領となり、地中海に面した帝国の軍港として栄え、十八世紀から十九・二十世紀にかけては商港として繁栄の頂点をきわめた。とはいっても、言語的にいうと、トリエステ人の多くは、ローマ時代このかた(この地方がヴェネツィア・ジュリアと呼ばれるのは、ジュリアス・シーザーの覇権がおよんだ土地を指すからだ)、イタリア語の方言を話し、ドイツ語を話しても、自分たちをイタリア民族と考えてきた。そのため、とくに支配層に属さない大多数のトリエステ人にとって、イタリア統一運動がさかんになった十九世紀末には、一日もはやくオーストリアの隷属から解放され、イタリアに帰属することが精神の支えになった。じっさいにイタリア領になったのは第一次世界大戦のあと、一九一九年のことで、解放運動では多くの犠牲者を出している。だが、皮肉なことに、トリエステのイタリア復帰論者が念願をはたしたのを境として、この都市は経済的に行きづまり、ながい下降線をたどることになる。地中海にいくつものすぐれた港をもつイタリアの領土になってからは、港湾都市としてのトリエステの存在意義は根底から揺さぶられ、イタリア東端の都市という空虚な政治的意味だけしか持つことができないのだ。
 文化の面からいっても、トリエステは特異な都市といえる。ドイツ語文化圏との精神的なつながりを全面的に断ち切るにはいたらず、トリエステ人は尊敬と憧れと憎しみの入り組んだ感情で、これもすでに過去のものとなったウィーンの文化や人々を眺めている。北の国々とつながりをもつことが、この町にとっては精神的にも死活の問題であるのに、言語的=人種的には、たえずイタリアにあこがれるという二重性がトリエステ人のアイデンティティー感覚をたぐいなく複雑にしている。はじめはドイツ語で、つぎにイタリア語の教育を受け、ハインリッヒ・ハイネの抒情歌とペトラルカの形式のあいだを揺れうごき、フロイトに傾倒するサバの詩にも、この複雑さは暗い影を落している。

・・・・・・(『トリエステの坂道』から)


トリエステは、ローマ時代からの古都で、
14世紀にオーストリアの保護下に入り、
18世紀にオーストリア・ハンガリー帝国の軍港、自由港として発展した。
第一次世界大戦後、1918年にイタリアに併合され、
ヨーロッパの各国から共産主義者をはじめとして多くの政治亡命者が集まり、
自由で独特な政治文化を開花させたという。
しかし、1943年9月8日、
ドイツ軍がこのトリエステの地をドイツ領としたことから、
多くの悲劇が起きた。

須賀敦子が紹介した
トリエステ生まれのユダヤ人の詩人、サバも、
ナチファシストユダヤ人の迫害の手から逃れて、
パリ、ローマ、フィレンツェを旅して、最後にトリエステに戻ってきたという。




(つづく)