大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「むかし Mattoの町があった」 (5)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/



1943年9月10日

 わたしの物語を、あの瞬間から始めるべきだと思う。それは、一九四三年九月十日の午後四時ごろのこと、チェルナイア通りとガリレオ・フェッラーリス大通りの交差点で、パオロ、エットレ、リゼッタとビラを配りながら、ドイツ軍の車の一隊が通り過ぎるのをわたしが半信半疑にながめた瞬間だった。・・・・・
 これ以前、つまりバドリオ政権の四十日間は、わたしにとってさほど深刻なものではなかった。・・・・・
 だからあの日、ドイツ軍の車が通り過ぎるのを見て、突然、ヴァカンスはおわったのだという気がしたのだ。現下の情勢がどのようなものなのかは、部分的にでさえもわかっていなかった。そればかりか、いつもの愚かで考えの足りない楽観的態度による推理を続けた。ドイツ軍の車は軍使を運んでいるにちがいない、提案は拒否されトリーノは防衛されるだろうと、などと。
 わたしたちのまわりに人が集まってきた。あの日の最も心を揺さぶられる思い出のひとつは、印刷物を手にしたわたしたちを見て、知られざる事情に通じていると思いこみ、何かを知ろう、つかもうと望みながら、わたしたちに質問をぶつけてきた道行く人々の不安だった。かれらの孤立、かれらの自暴自棄が、心を揺さぶるのだ。物心両面で武器となるものをもたず、指針もなく、そして命令も与えられずにみんな投げ出されていた。・・・・・・

 *訳者註:ローマも同じ混乱のなかにあった。1943年9月8日に連合軍との休戦協定が公表されるやいなや、国王とバドリアはローマを去って安全な南部に逃れ、ローマはドイツ軍に占領された。こうして指揮官を失った軍隊は混乱のうちに解体し、兵隊の多くは帰郷しようとしたが、イタリア中部と北部では、ドイツ軍から逃れるため、あるいは明確な抵抗の意思をもって山岳パルチザンとなる兵隊が現れた。


1945年4月28日

 ・・・・・
 その長い長い一日に起こったことすべてに考えをめぐらした。でもわたしが何よりも考えたのは明日のことだった。まだ遠くにときたま聞こえる銃声が、その日のお祭り騒ぎにもかかわらず、戦争がまだ終わっていないことを思い出させた。ドイツ軍の大部隊がまだグルリアスコやカナヴェーゼ地方など、トリーノからわずかの距離にいるのをわたしは知っていた。しかし私の心配は、要するに、このことではなかった。まだぞっとするような事件が起こるかもしれないが、流血の戦闘は実質上、終わっていた。ドイツ第三帝国は、プランピネのフランス軍司令部に書かれてあった予言どおり、まさしく崩壊していた。間もなく連合軍が到着するだろう。空襲、火事、掃討、逮捕、銃殺、絞首刑、殺戮は、もうなくなるだろう。これは偉大なことだ。
 混乱し荒廃した国を建てなおすときに直面しなければならない、実際的、物質的な困難にわたしはひるまなかった。わたしたちの民衆の無限の力が、何事に関しても、思いもよらない解決を発見するはずだからだ。
 だが、ぼんやりとではあるが、別の戦争が始まったことを直感した。・・・・
 それはまた、わたしたちどうしの闘い、わたしたち自身の内部での闘いを意味していた。破壊するだけの闘いをするのではなく、明確にし、肯定し、創造するために闘わねばならないからだ。・・・・うわべだけは元通り平常になったよどんだ空気のなかで、あの九月十日に生まれるのをわたしたちが目撃し、二十か月間にわたってわたしたちを支え導いたあの小さな炎を、兄弟姉妹のように堅く結ばれたあの人間愛の炎を、絶やすことがあってはならないのだ。
 あの日々に、ほとんどすべてのわたしたちの人民を結びつけていた驚くべきアイデンティティが、勝利の興奮とともについえたとしても、わたしたちの多くの者は、この厳しい闘いをたたかいぬくだろうことを、わたしは知っていた。昨日の友、昨日の同志は、また明日の友、明日の同志であるだろう。しかしわたしには、また分かっていた。闘いだけが唯一の力なのではなく、また以前のようにそれが唯一不変の顔をもつのではなく、千のかたち、千の異なる様相に分裂するであろうこと。そして、おのおのが、さまざまな体験をつうじて骨おり苦しみながら、軽重の差はあれ多様な義務を遂行することによって、自分自身の光と道を追い求めねばならないことが。・・・・・・

パルチザン日記 1943年~1945年」(アーダ・ゴベッティ著)から



アーダ・ゴベッティは、
1902年トリーノ市生まれで、イタリア反ファシズム運動を生きた女性。
日記のはじめの1943年9月10日は、
連合軍がイタリアの無条件降伏を発表した二日後であり、
ドイツ軍がトリーノ市を占領した当日である。
また1945年4月26-28日は、
レジスタンスの勝利、ドイツ軍の撤退、トリーノの解放の日々である。


第二次世界大戦中、
ナチス・ドイツファシズム・イタリアの占領下に置かれた
ヨーロッパ諸地域では、
占領支配に抵抗する住民のレジスタンス運動が行われた。
ユーゴスラヴィアレジスタンスは、真のパルチザン軍隊をもち、
ヨーロッパの最大のパルチザン運動であり、
これに対して、フランスのレジスタンスは、より多く、
地下組織と地下運動によっていた。
この抵抗運動をフラン人は、「レジスタンス」と呼んだが、
イタリアでは、みな、「パルチザン戦争」と呼んでいた。
イタリアのレジスタンスは、軍事的には、
ユーゴスラヴィアとフランスの中間にあるといわれる。
イタリアのレジスタンスは、それ以前の、
20年にわたる反ファシズム運動の一環であったとされている。
1922年10月、イタリア国王がムッソリーニ
組閣を命じてファシスト政権が誕生した。

1943年9月8日にはじまるイタリアのレジスタンスは、
単に占領ドイツ軍を追い出す闘いではなく、
みずからの体内に生まれたファシズムと対決し、これとの闘いでもあった。

もっとも典型的なパルチザン戦争は、イタリア北部で戦われた。




(つづく)