大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「むかし Mattoの町があった」 (7)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/



トリエステに生まれ育った一人の人間の指揮のもとに、
ポーランドのルブリン地区で、そして、トリエステで多くの悪が行われた。


1904年、オディーロ・グロボクニクは、
当時オーストリア・ハンガリー帝国領だったトリエステのジューリア街に生まれた。
父親はハプスブルク騎兵隊大尉フランツ・グロボクニク(フランチェスコ)で、
母親はアンナ・ペツクニカで、両親ともスロヴェニア人という。

スロヴェニア人は、イタリア北東部、オーストリア南部、クロアチア
ハンガリー少数民族として暮らしていた。
第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国は瓦解し、
トリエステは、1920年ヴェネツィア・ジューリア全体と一緒に
イタリアへ併合された。
当時、スロヴェニア人は、人口の25%を占めていたが、
ファシスト政権が台頭すると迫害を受けた。これが市内部の緊張時代を招き、
1920年4月13日、イタリア愛国主義者集団が、
トリエステ在住スロヴェニア人の文化センターとなっていた
ナロドニ・ドムへ放火・炎上させるという事件が起きた。
グロボクニクは第一次世界大戦の影響で、
オーストリア領ケルンテン地方のクラーゲンフルト市へ移り、
実業学校へ入学、卒業後、ケルンテンで建築技師になった。

1922年にオーストリア・ナチ党に入党した。
1931年にはドイツ・ナチ党にも入党し、オーストリアでのグロボクニクは、
オーストリア・ナチ党とドイツ・ナチ党との連絡役を務めていたという。


ドイツにおけるナチス党の活動はオーストリアにも波及していった。
1932年の地方選挙で、
保守的・反共的な思想の人々のオーストリアナチス党への支持が
急速に高まった。
翌1933年、ドイツで(オーストリア生まれの)ヒトラー政権が誕生すると、
その支援を受けたオーストリアナチス党員が
公然と暴力によるオーストリアの政権奪取とドイツへの併合を主張し始めた。

グロボクニクは、軍人としての履歴を重ねて、
ドイツ・ナチ党の準軍事組織である親衛隊全国指導者のヒムラー
個人的に親しくなる。

1938年3月、ドイツは、
ドイツ系住民が多数を占めていたオーストリアへ軍事侵攻し、
オーストリアを併合した。

グロボクニクは、1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻の際にも、
第2連隊「ゲルマニア」に従軍した。
グロボクニクは、ヒムラーの下にあって、
1939年11月、総督府領(ドイツに併合されていないポーランドの部分)
ルブリン地域のSS(親衛隊)とSD(警察)の指揮官になる。
そして、ルブリン地区にベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所
マイダネク強制収容所などユダヤ絶滅収容所を続々と設置した。
ルブリン地区ではないが、トレブリンカ強制収容所の設置にも携わった。

グロボクニクが監督したこれらの収容所では、
1942年3月から始まったポーランドなど
東ヨーロッパのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)を解体し、
そこで暮らすユダヤ人などを三大絶滅収容所へ移送して殺害する絶滅計画、
通称「ラインハルト作戦」に沿って移送されてきたユダヤ人をはじめ、
ロマ(ジプシー)、同性愛者、共産主義者など大勢が虐殺された。
その数は、実に200万人に達するという。
1942年から1943年のわずか1年余のうちに、
これほどの大量の虐殺を行った悪の中心人物、グロボクニクは、
トリエステに生まれ育った。
彼は、スロヴェニア系の血筋をひきながらオーストリア復権
願っていたといわれる。

ドイツの戦況が悪化しはじめた1943年になると、
ルブリン地区のベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所
マイダネク強制収容所や地区外のトレブリンカ強制収容所のうち、
まず、ベウジェツが閉鎖され、
続いてトレブリンカとソビボルも閉鎖されていった。
1943年11月までには3収容所とも消滅し、
ラインハルト作戦はここに終了する。
ナチスはこの3収容所を跡形もなく解体し、
さらに跡地には植林を施して背景に溶け込ませて証拠隠めつを図った。
これ以降の絶滅政策は、
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所やマイダネク強制収容所
ヘウムノ強制収容所などが中心となっていった。

1942年4月、トリエステ
イタリアやユーゴスロヴァキアのパルチザンの弾圧と
大工場の労働者を管理するための
ヴェネツィア・ジューリア州公安警察の特務機関が設置された。
ムッソリーニが失脚し、
ドイツ軍がイタリアへ侵攻した後の1943年9月10日に、
ヒトラーによるOZAK(アドリア海沿岸作戦地域)が設立され、
トリエステを中心に、
イストリア半島を含むイタリア半島の北東付近がドイツ軍占領下に入った。
トリエステの西からはイタリア・パルチザンが、
東からはユーゴスラヴィアパルチザン勢力が
ゲリラ的侵攻の機会をうかがっていた。

この地域の指導者にフリードリヒ・ライナーが就任し、
彼は、すぐにオーストリア・ナチ党以来の盟友の
グロボクニクSS(親衛隊)中将を
トリエステの親衛隊及び対パルチザン警察最高司令官に任命した。


グロボクニクは、生れ故郷のトリエステに戻ってきた。
トリエステの地理に明るいグロボクニクは、
1943年末にトリエステのサン・サッバの元精米所を
政治犯を収容する「警察収容所」に改造し、
「ラインハルト作戦」で働いた部下92名を呼び寄せた。
やがて、「警察収容所」は、
ヴェネチアをはじめトリエステ周辺で捕らえられたユダヤ人が、
アウシュヴィッツに移送しされ、
送り込まれるまでの「中継収容所」となった。
ユダヤ人にとって、サン・サッバは「中継収容所」であっても、
絶滅収容所」(ユダヤ人等の殺害を目的とし、
死体焼却炉 があった収容所)ではなかった。
元精米所の巨大な工場には、
ユダヤ人と政治犯パルチザンという三種類の囚人が
多数閉じ込められていて、
恐ろしい拷問と虐殺が繰り返されていたという。
一方で、グロボクニクは、
ポーランドのトレブリンカやソビボルの絶滅収容所
火葬炉を作った経験の持ち主であるランベルトに製作と監督を依頼した。

サン・サッバの収容所は、その後、焼却炉を備え、
1944年2月から3月にかけて、「絶滅収容所」に変えていったようである。
戦後になって、そのころから、収容所の煙突から、
毎日、午後になってはき出される煙が異臭をまきちらし、
海沿いの小道のはずれで、ドイツ兵が
荷馬車に積んだ袋から大量の灰を海に投げ入れるのを見た
という証言もあったという。
(『イタリア・ユダヤ人の風景』河島英昭著)
また、この投げ棄てた場所は
『イタリア・パルティザン群像』(岡田全弘著)によると、
アドリア海のムッジャというところの入り江のようである。

1944年の春、トリエステの町で、
占領ドイツ軍は、反パルチザン対策として、
一連の恐るべき行動と復讐に出ている。
トリエステ生まれの親衛隊司令官クロボクニは、
「目には目以上の、歯には歯以上の」、
「一人のドイツ兵の死に、十人の敵の死を」という
パルチザン闘争への弾圧命令を出していた。
町中にスパイを放ったり、
多くのイタリア人やスロヴェニア人をナチスの機関に採用した。
この結果、相互に民族的な憎しみを持つ市民から
多くの匿名の告発があったという。

1944年、4月2日、トリエステのオピチーナという町で、
スロヴェニアパルチザンによってテロ行為が行われ、
7人のドイツ兵が死亡したのを受けて、
ナチスのSS(親衛隊)は、テロへの復讐として、
翌4月3日、トリエステのコローネオ監獄から
ファシスト活動家やパルチザンなど71人を引き出し、銃殺した。
犠牲者は、建設されたばかりのサン・サッバの火葬炉で、
灰にされたという。
4月22日にも、パルチザンのテロがあり、監獄から52人が連れ出されて、
ナチスにより、処刑された。
この犠牲者の中には、16~18歳の若者がいて、
全員がトリエステの反ファシズム戦線のメンバーであったという。

1945年4月29日から30日にかけての夜に、
ドイツ軍はこのサン・サッバの絶滅収容所の焼却炉などを爆破して、
撤退した。

このサン・サッバの絶滅収容所は、戦後、避難民の収容所を経て、
修復の後、1975年に、「リジエーラ市民博物館」
(リジエーラ・ディ・サン・サッバ)として、
オープンし、国立記念館となっている。
リジエーラは、「米を脱穀をする工場」の意味という。
国立記念館の文書に示された犠牲者の数は、
火葬炉で処理され殺害されたパルチザンなど抵抗運動者たちの総数は
約5,000人、
<中継収容所>としてアウシュヴィッツなどへ送られたユダヤ人の総数は
約20,000人という。


このトリエステは、
戦後イタリアの精神保健改革の出発地点であった。




(つづく)