大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「むかし Mattoの町があった」 (8)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




しかし、それにしても、「悪」とは何だろうか。


藤沢道郎というイタリア近現代史の専門家は、かつて
ファシズムという現象には、それまで疎外されていた大衆の一部が政治的にめざめ、急激な変化を望み、みずからその運動に参加する意欲を示すという一面があり、それが既成の体制イデオロギーである自由主義と民主主義、既成の反体制イデオロギーである社会主義共産主義の両方を否認する方向に進み、暴力をともなう激しい非合法行動によって、自己を確立しようとするところに、その特徴があるのである。・・・・・
ファシズムとは何か」という問いは、「反ファシズムとは何か」という問いと、密接に結びついている。・・・・
ファシズムの社会的基盤は深く、単なる軍事独裁や保守反動とは異なる一種の革新性をもって、大衆を動員する・・・・」とした。
(『ファシズムの誕生 ムッソリーニのローマ進軍』)

また、ファシズムに抵抗したイタリアの思想家クローチェは
ファシズムを「病気」あるいは「退廃」と批判しつつ、
「自由」を称揚したといわれている。

しかし、『イタリア・パルティザン群像』の中で、著者の岡田全公は、
レジスタンスと聖職者たち」の章で、次のように書いている。
「ナチファシズム支配下において亡くなったイタリアの聖職者は、全体で四百二十五人を数える。ファシストの手にかかった者191人、ドイツ人に殺された者125人、パルティザンに処刑された者109人 約四分の三の聖職者がナチファシストによって殺害されたことになる。一方、パルティザンに殺された聖職者たちの多くは、解放直前や最後の戦闘末期に今までファシストを公然と支持し、反ファシストを呪ってきたことへの「しっぺ返し」の報復的意味を込めて殺されている。・・・・」

このこと、
パルチザンに処刑された聖職者が少なくないということが事実だとしたら、
「悪」とは何だろうか、「正義」とは何だろうか、
ファシズムパルチザンとは何だったのだろうか、と。
私は、立ち止まってしまった。

おそらく、
このパルチザンによる報復的意味をもったファシスト協力者に対する殺害は、
氷山の一角なのだろう。


まず、イタリアのパルチザンによって、
ムッソリーニが裁判を経ることなく、すぐに処刑されたという事実がある。

1945年になって、イタリア各地におけるパルチザンの蜂起により、
事実上ドイツの傀儡政権であったイタリア社会共和国は瓦解し、
ムッソリーニはドイツ軍の保護の下でスペインに向けて、
イタリアからの脱出を図ったが、
1945年4月27日、移動途中のコモ湖付近で
第52ガリバルディ旅団のパルチザン部隊に
愛人のクラーラ・ペタッチと共に捕捉された。
メッツェグラ市でムッソリーニたちは民家に幽閉された。
翌日(4月28日)、
ムッソリーニを初めとした15名の政府要人が
ギウリーノという市街地の郊外に移動させられ、
そこで全員が射殺された。
1945年4月29日、ガリバルディ旅団は
ムッソリーニの死を公開するため、
遺体をトラックでミラノ市へと移送した。
ミラノに到着した輸送部隊は衣服を着けたままの要人達の遺体を
ロレート広場に投げ出してさらし者とした。
広場に集まっていたパルチザンは、
十数体の遺体に罵声を投げかけ、銃撃を浴びせたという。
やがて、遺体は広場の屋根にロープで吊り下げられた。
これは、ファシスト政権が政治犯に行っていた街頭での
絞首刑に対するし返しの意味合いがあった。



次に、ユーゴスラヴィアパルチザントリエステ地域に
侵入してきたときのことである。

ユーゴスラビアパルチザンは、
正式名称をユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊といい、
第二次世界大戦時のユーゴスラビアでの、
ドイツやイタリアなどの枢軸国の支配に抵抗した
共産主義者主体の勢力であり、
チトーを最高指導者としていた。
ユーゴスラビアパルチザンは、
捕らえたドイツ軍協力者に対する報復的殺害を各地で行ったという。

最初の波は、1943年9月8日の後で、
チトーのパルチザン軍が、
イストリア地方のファシストに協力したイタリア人に復讐し、殺害した。
より残虐だったのは、1945年春のものであったという。
1945年5月1日、チトーのパルチザン軍は、
イギリス軍よりも先にトリエステに侵攻しており、
解放後のトリエステにチトー軍が侵入し、
数千人(大多数はイタリア人)を
トリエステ、ゴリツィア、フィウメで逮捕した。
あるものは収容所に、
あるものは、フォイベ(カルスト地形の穴を指すイタリア語)とよばれる
洞窟に放り込まれたという。
これらの一連の報復行為は、
ここに虐殺の犠牲者が投げ込まれたことから
「フォイベの虐殺」と呼ばれている。


イタリアでは、1943年9月以降、
ロシア民謡「カチューシャ」のメロディに独自の歌詞をつけ、
パルチザン蜂起を呼びかける歌として歌われたという。
イタリア語の歌詞は、
共産主義者の医師で自身もパルチザンによって書かれ、
「風は鳴る Fischia il vento」と呼ばれた。
歌詞の中には「誇らしく自由を讃え」とあり、
パルチザンは容赦なく復讐する」という言葉があるという。



ヨーロッパの「解放」という光の中での、この闇、
宗教、人種、民族、イデオロギーなどのちがいによる
「浄化」をも含む、「目には目を、歯には歯を」という
「憎悪」と「怨念」に満ちた「敵」の殺害という復讐と報復行為については、
すっきりしないものが残る。




(つづく)