大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (9)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/



1945年5月1日、チトー率いるユーゴスラビアパルチザン軍が、
トリエステ地域に到着し、ナチスから市の大半を解放した。
一方、イギリス陸軍第8軍(ニュージーランド軍)は、
アドリア海北岸周辺の国道沿いにトリエステに向かって進軍を続け、
翌5月2日にトリエステへ入った。
夕方、トリエステ駐留のドイツ軍はイギリス軍に降伏した。

チトーは、イタリア領ヴェネツィア・ジュリア州すべてと
南カリンティア州の北部地域の割譲を要求した。
イギリス首相チャーチルアメリカ大統領トルーマンらは、
地中海に共産主義者が拠点を得ることを望まず、
イギリス軍とユーゴスラビア軍の間に緊張が走ることとなった。
しかし、ソ連共産党は、
西側連合国やイタリア共産党との衝突を望まなかったため、
ユーゴスラヴィア軍へトリエステから撤退するよう命令し、
1945年6月12日、ユーゴスラヴィア軍は撤退した。

チトーのユーゴスラビアパルチザン軍は、この6月12日まで、
トリエステ市を完全に管理下においた。
ユーゴスラヴィア軍に占領されたこの期間は「トリエステの40日」として
知られる。
この時期、多くのイタリア人ファシストなどが殺された。
1930年代にファシストによって始められた
スロヴェニア人に対する迫害・殺害に対する報復行為の一つである。

その後、イギリス軍がトリエステを占領したため、
ヴェネツィア・ジュリア州の一部だけが
ユーゴスラビア領となることとなった。
一方で、スロヴェニア人で構成された部隊は、
コペルとその周辺プリモーリェの占領を行っていた。

チャーチルは、1946年3月の演説で、
バルト海のシュテッティンからアドリア海トリエステまで、
鉄のカーテンが降ろされている」とソ連を非難した。
1946年10月に結ばれたパリ協定により、
トリエステを中心とした地域は
イギリス軍とアメリカ軍が統治することとなり、
コペル、ブーイェを含む地域はユーゴスラビアが統治することとなり、
この境界線では厳戒態勢が敷かれることとなった。

トリエステは、戦後も重要な貿易港であり、工業も発展していたため、
イタリアとユーゴスラヴィア連邦の間に
トリエステ問題」と言われる領土帰属紛争が生じ、
さらに、東西冷戦が始まると米ソ間の東西対立の前線となった。

1947年2月27日のパリ講和会議の結果、
イタリア講和条約が締結され、
トリエステとその周辺は国際連合の管理下の「自由地域」とされ、
それを北のA地区,南のB地区に分割し、
トリエステ市を含むA地区は英米連合国が管理し、
B地区はユーゴスラヴィア連邦が管理するとされ、
イタリアの主権は及ばないこととなった。
これによってトリエステ市域はイタリア領となり、
その南の沿岸部がユーゴスラヴィア連邦となった。

須賀敦子は、「きらめく海のトリエステ」というエッセイの中で、
「戦後、題名は忘れたが、ネオ・リアリズムの映画でトリエステを扱った作品があって、たしか連合軍に占領された地区とユーゴスラヴィア領になった地区で恋人たちがはなればなれになった話だったと思う。」
と書いているが、
この映画は、おそらく
白い国境線』というルイジ・ザンパが監督した1950年の作品だろう。

ある日、突然、連合国によって、北イタリアの小村の中をイタリアとユーゴの新国境線がしかれることになった。村は一夜にして二分され、子供達は遊び場所を両断され、恋人たちも引き裂かれてしまった。・・・・・
というストーリー

ロベルト・ロッセリーニ監督の『無防備都市』、『戦火のかなた』、
この『白い国境線』もそうだが、
ほんの1年から3年前にあった事実をもとに、
すぐに映画作品にしてしまうところに、イタリアという国のすごさがある。


さて、その後、ユーゴスラヴィア連邦のチトーが独自路線をとり、
1950年、ソ連と対立してコミンフォルムを除名されたため、
西側諸国が軟化し、1954年に協定が成立、
トリエステ自由地域は解消された。
ほぼA地区はイタリアに返還され、
B地区はユーゴスロヴィア領とすることで収まった。

1991年にユーゴスラビアから、スロヴェニアクロアチアが分離独立した際、南部の旧B地区は、さらに二分割された。



しかし、トリエステという町の歴史は、
これだけに終わらない。
過去に、トリエステに住むイタリア人とスロヴァニア人との
間にあった民族紛争もあり、この地域をいっそう複雑にしてきた。


2006年の調査ではトリエステの人口の93.81%はイタリア人が占め、
最大の少数民族スロヴェニア人とクロアチア人で、
近年は、セルビアアルバニアルーマニアからの人々も
多くなっているという。




(つづく)