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「むかし Mattoの町があった」 (10)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/



1382年以来、オーストリア帝国領になったトリエステは、
1719年に神聖ローマ皇帝カール6世によって、
オーストリア領内での自由港に指定され、
18世紀半ばのカール6世の後継マリア・テレジアの全面的な支援によって、
港町として本格的な発展を開始した。

ところが、19世紀に起こったイタリア人(イタリア系文化をもつ者)が
住む土地全ての統一を目的とした
政治的、社会的運動(「リソルジメント」)による
1848年オーストリアに対するイタリア統一(独立)戦争を経て、
1861年、統一イタリア王国が成立した。         
しかし、イタリア王国が領土と主張した地域のうち、
イタリア統一戦争後もトリエステ、イストリア地方、フィウーメ、
ダルマツィア地方などの旧ヴェネツィア共和国領が、
「未回収のイタリア」としてオーストリア領内に残った。

一方で、オーストリア帝国各地のスラブ系民族の民族意識の覚醒の影響で、
それまでコスモポリタンな港町(都市)の理想が終わり、
トリエステを排他的な民族の対立の舞台へと変えていった。
そして、多くのトリエステ人にとって、
オーストリアトリエステに与えていた自由港としての地位、
地中海での中心を構築していた地位をはく奪し、裏切ったとの思いが残った。

なお、第一次世界大戦直前のトリエステの人口分布調査によると、
全人口22万人のいち75%がイタリア系住民、スロヴェニア系住民が19%、
ドイツ系住民5%、その他1%であったという。

イタリア人とスロヴェニア人の対立は第一次世界大戦直前には激しくなり、
トリエステのイタリア人にとっては、
アドリア海沿岸地域を防衛することは、
イタリア国家との政治的、領土的統合を通してしか実現しないと思われた。
一方、スロヴェニア人の民族主義は、
オーストリア側の反イタリアという装いによって勢いづけられ、
トリエステの排他的なイタリア性の否定に立つことになった。
スロヴェニア人たちは、トリエステを民族本来の首都として想像し始めた。

1918年、第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国が解体し、
トリエステはイタリアへ併合された。
トリエステは、最終的にウィーン、
トリエステを近代都市にしたオーストリア帝国によって
「孤児」にされた。
さらに、これは、トリエステが何世紀にもわたって帰属してきた
文化的雑種とコスモポリタン的な世界からの決裂を意味するものになった。
一方、トリエステは、
イタリア国家に対しても「孤児」にされたと感じていたという。
イタリア国家自身が、
トリエステの多民族性という「実験室」の複雑な性質をまったく理解せず、
イタリア系トリエステ市民によってさえ、
民族再統合の夢からまったく異なったものとして経験された。

そして、トリエステのイタリアへの併合により、
スラブ系住民を少なからずかかえたことは、
早くからイタリア・ファシズムが支持を集める温床となったといわれる。
都市の主要産業は国有化され、ドイツ語を話す住民の大部分は去り、
名声のあるドイツ系学校は閉鎖された。
中央ヨーロッパ的でコスモポリタン的なトリエステのすがたが
崩壊するにつれて、イタリア人とスラブ系住民との分断は、
さらに先鋭化した。

1920年ムッソリーニが外国人排斥キャンペーンを実行したことにより、
トリエステスロヴェニア民族会館が焼きうちにあうなど、
トリエステスロヴェニア人コミュニティを暴力的なやり方で迫害し始めた。

一方、イタリア・ファシスト体制がトリエステを単に植民地化され、
「イタリア化されるべき」周辺地域としてしか見ていないことを、
市民は気がついていたとされる。
1923年には、スロヴェニアに隣接するヴェネツィア・ジュリアの学校では
スロヴェニア語教育が禁止されるなどスロヴェニア語の抹殺が図られ、
多くのスロヴェニア人が、
他のヨーロッパ地域やラテン・アメリカへ移住する事態も発生した。
さらにムッソリーニは、
スラヴ語起源の名称を持つ町や村の名称を変更しただけでなく、
スロヴェニア人の組織(エディノスト)も解散させ、
スロヴェニア語の新聞も弾圧した。
その結果、スロヴェニア人の政治的、文化的組織は
地下組織化を余儀なくされ、
イタリアのスロヴェニア系住民とイタリア政府の関係は悪化し、
第二次世界大戦の終わりにトリエステという都市を
分裂させる紛争の素地を用意したといわれる。
強制的な同化政策によって、
スロヴェニア人の政治的な存在を消そうとした。

スロヴェニア人の民族的独自性の自覚はますます強くなり、
イタリアのスロヴェニア民族主義者たちは、
ユーゴスラヴィアへの併合を要求したが、
イタリア政府はこれを反逆行為として弾圧した。
一方、イタリアとスロヴェニア人の民族紛争の激化と並行して、
イタリア政府がユダヤ人を排斥するために制定した1938年の人種法は、
トリエステに住むユダヤ人に衝撃を与え、
イタリア国外に逃亡することになった。

スロヴェニア人にとって
トリエステからほんの数キロしか離れていない場所に、
1929年、新たにユーゴスラヴイア国家が作られるのを興味深く注目していた。
「故郷」が、イタリア・ファシスト体制によって
ますます暴力的に抑圧され迫害されるのを目のあたりにし、
このユーゴスラヴイア国家は、自らすべて南スラブ人の聖域であると宣言し、
トリエステがいつの日か南スラブ人の中心都市になる可能性を想像し始めた。
こうして、トリエステへの攻略は自らの民族の解放と自決にとって、
不可欠なこととなった。

第二次世界大戦期と終戦直後の時期、
トリエステスロヴェニア人コミュニティは、
民族的、社会的解放という希望のもとに共産党の綱領へと緊密に結びついた。
トリエステの特殊性が保たれるのは、
ユーゴスラヴィア国家が与える民族自治の保証によってであり、
実際、チトーはトリエステを含むアドリア海沿岸都市は、
本来、スラブ人に帰属していると主張した。

イタリア対スラブの紛争は、
第二次世界大戦におけるイタリアの敗北と
終戦直後の1945年5月から6月にかけて、トリエステを侵攻し支配した
ユーゴスラヴィアの40日間の、
ユーゴスラヴィアパルチザンによるファシスト・イタリア人に対する
報復行為につながっていった。

オーストリア帝国時代での、
多民族をかかえたトリエステコスモポリタン的都市の性格は、
民族紛争をともなう排他的な都市に変わってしまった。
最初は、イタリア・ファシスト、次にドイツ・ナチス
後に、ユーゴスラヴィアの占領という暴力に続き、
第二次世界大戦終戦時には、
何千人ものイタリア人難民が
ユーゴスラヴィアによって占領されたイストリアから出国し、
トリエステ流入したといわれる。
そこは、アドリア海のイタリア人が
沿岸の中心都市とみなしていた場所である。

英米軍による占領は、1945年から1954年まで続き、
西側の勢力圏内にトリエステを維持していたが、
その結果、トリエステを長期にわたって、どの国家にも属さず、
二つの世界の間で宙づりにされた政治的にも文化的にも中間地帯を
つくりだした。
冷戦の秩序の中で、トリエステはまさしく<境界地域>、
つまり「鉄のカーテン」の前にある前哨地となった。

イタリア・ファシズム、イタリア国家、ユーゴスラヴィア軍、連合軍の
占領を強いられたトリエステの住民にとっては、
包囲された心情が広がり、
苦悩に対する戦後イタリア国家の補償の欠如と不信感を
抱くようにもなったといわれる。
新しい共産主義国ユーゴスラヴィアに割譲されたイストリア半島の喪失は、
けっしてもどりはしないヴェネツィア・ジュリア時代への哀悼と
ノスタルジアを刺激し、戦後期のトリエステ社会に深刻な影響をもたらした。

一方で、トリエステスロヴェニア人も、
ユーゴスラヴィアによる短いトリエステ占領期の後、
再び国家なき民族、非スラブ都市での少数民族となり、
共産主義ユーゴスラヴィアの主張に同一化したことによって、
多くの市民から、
トリエステやイタリア的伝統への敵とみなされるようになった。

そして、1954年のトリエステのイタリア復帰後の対立軸の二分法は、
イタリア人対スラブ人、民主主義対共産主義という図式となった。

しかし、のちに冷戦が終結し、
ヨーロッパ連合(EC)が東方に拡大するようになってはじめて、
トリエステは、ふたたび、
その複雑な重層的な経済的、文化的伝統をとらえた
多文化的な理想的な都市や「トリエステ人」という
理想化されたイメージを模索するようなったという。
その中心となるのは、
ヴェネツィア地方語をスラブ語、ドイツ語、ギリシア語など
数えきれないその他の影響と融合の結果生まれた
トリエステ方言という共通語である。
このトリエステ方言をトリエステ人の帰属意識をつくる鍵とし、
固有の民族や領土に結びつかず、
もっと広く海洋的な地平によってつながるという理想のもとに、
コスモポリタン的伝統を再び求める試みである。
現に、このトリエステ方言は、
最近移民してきたセルビア人、ボスニア人か
マグレブ地方や中国からやって来た移民の子どもたちにいたるまで
都市の移民コミュニティで、話されているという。

1991年、スロヴェニアユーゴスラヴィアから独立した。

2007年、元共産主義国スロヴェニアのEU加盟によって、
イタリアとの国境は消滅する。
現在、トリエステのバスセンターからは、
ボスニアブルガリアルーマニアセルビアクロアチア
スロヴェニア、ウィーン行きなどの多くの国際バスが、
町中のバスセンターで、ごく当たり前のように発着していて、
買い物客、職を求める人々などの移動が国内移動の感覚で
くりかえされているという。


二つの世界大戦の前後を除けば、
多民族、多文化を許容する
コスモポリタン的な都市であったトリエステで、
戦後、1960年代~1970年代にイタリアの精神保健改革が
本格的に始まった。

多様で「異質」なものに対する許容度が高いということは、
「ちがい」を問わない、排他的にならない、
排除しない、受け入れるということである。




*今回、まとめるにあたって、『「トリエステ人」とその現前の地理』(クラウディオ・ミンカ)などの資料を参考にした。



(つづく)