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「むかし Mattoの町があった」  (11)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




1943年から1945年にかけての約1年半のレジスタンス(パルチザン)経験は、
戦後のイタリアで重要な意味を持ちつづけていた。
戦後のイタリア共和国は、「レジスタンスから生まれた」といわれている。
レジスタンスの勝利は、誇りに満ちた出来事として記憶されてきたという。
自由や民主主義という価値を、
レジスタンスを通してイタリア人みずからの手でつかみとったという認識は、
ナチ・ファシズムに対する勝利の記憶ととともに、
戦後イタリアの自画像をつくってきたといわれる。
それは、反ファシズムを基本的な価値とするという認識である。
実際、1947年12月に制定された共和国憲法
「解散されたファシスト党の再建は、いかなる形においてもこれを禁止する」
という「反ファシズム条項」(経過および補則規定第12条)に
象徴的に示される。

1945年春、国土解放を達成したイタリアは、
米英など占領下、左右の政党勢力の主導で戦後の新体制づくりへと乗り出した。
レジスタンス時代に活躍した共産党社会党、行動党、キリスト教民主党
自由党、労働民主党の主要6党は、
行動党のパッリを首相に連合政権を組織したが、
その後、東西冷戦という国際情勢の流れのなかで、
挙党一致は失われていった。
パルチザン経験者からなる団体さえもが、戦後数年のうちに分裂している。
しかし、そうした状況の裏返しとして、
諸勢力が立場のちがいを越えて団結したレジスタンス運動の記憶は、
いっそう輝きを増し、その担い手であるパルチザンもまた、
戦後イタリアの基礎を築いた先人として、顕彰の対象とされてきた。

戦後のイタリアでは、4月25日は「解放記念日」という祝日となっている。
それは、レジスタンス勢力が、北部主要都市での一斉蜂起命令によって、
駐留していたドイツ軍を撤退に向かわせたのが、
1945年のこの日であったことからくる。
(*前にふれたように、トリエステの解放は少しずれて4月30日であった)
解放記念日には、
イタリア北・中部を中心とする各地に設置された
レジスタンスに関わる石碑などに
花輪がささげられ、さまざまな記念式典が開催されているという。
戦後のイタリアで広く流布されたパルチザンのイメージは、
新しいイタリアを生みだすため自己犠牲をいとわず戦った
若者たちの姿が浮かび上がる。


1947年2月、キリスト教民主党社会党共産党の三党政権である
第3次ガスペリ内閣が成立したが、
新しい共和制は、戦災による経済的病弊やさまざまな社会不安、
ユーゴスラヴィアとのトリエステ帰属争いなど、
多くの問題をかかえていた。
共和制の出発に最大の影を投げかけたのは、
米ソ間で深まる国際的な対立、冷戦の影響である。
アメリカは、共産党の勢力拡大をみて、
ソ連の影響力が浸透する恐れをますます強め、
経済再建に必要な援助提供の条件に、
社共両党との関係断絶をイタリア政権に迫った。

1947年5月、キリスト教民主党のガスペリは、
社共両党を閣外に追放し、
新たに自由党社会民主党共和党を含む中道連合政権への
内閣改造に踏みみ切った。
共産党社会党、労働運動と中道連合勢力の間で、
左右対立は一段と深まっていった。
国内でも、カトリック教会やキリスト教民主を支える保守層、産業界は、
共産主義勢力との提携をきびしく批判していた。
その後、中道連合政権の基礎は、一段と弱体化が進んでいくが、
一方、共産党の勢力拡大は続いていた。
1948年の第1回の総選挙の結果は、
『近代イタリアの歴史』(伊藤武 編著)によると、
キリスト教民主党48.51%、
共産党社会党の民主人民戦線は30.98%の投票率で、
議席としては、キリスト教民主党過半数を超える議席を獲得したという。

その後、イタリアは経済成長により社会は大きく変貌し、
日常生活にさまざまな家電製品が普及するなど消費社会が進展していった。

こうした時代を背景に、1963年12月、
共産党を排除しつつ、キリスト教民主党共和党社会民主党の中道政党に、
左翼政党である社会党を含んだ4党の政党間連合として、
中道左派政権が成立した。
この枠組みは、1973年に共産党カトリック勢力との
共存・協力関係を唱える「歴史的妥協」路線を打ち出し、
キリスト教民主党共産党も含めた4党から閣外支持を取りつけた
「大連合」政権を樹立する1978年3月まで続いた。



さて、イタリアのトリエステでの精神保健改革に端を発し、
精神病院の廃止をきめた法律、
第180号は、「大連合」政権が成立した1978年に制定された。
しかし、この精神保健改革の動きは自然発生したものではない。
その前に、イタリアは、「1968年」を中心とした
1960年代後半(世界的に動きでもあった)と
(イタリア特有の)1977年の学生や労働者の反乱と改革要求の時代、
あらゆる領域における制度改革と
異議申し立ての抗議運動のはげしい時代を
通過しなければならなかった。





(つづく)


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