大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (12)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




イタリアの1960年代、1970年代の時代的背景については、
いつかふれるとして、現在の日本のこと。

日本に、以下のような法的規則があることは、
医療関係者は別として、
一般的には、ほとんど知られていない。


<医療法施行規則>(昭和二十三年十一月五日厚生省令第五十号)


第十条  病院、診療所又は助産所の管理者は、患者、妊婦、産婦又はじよく婦を入院させ、又は入所させるに当たり、次の各号に掲げる事項を遵守しなければならない。ただし、第一号から第三号までに掲げる事項については、臨時応急のため入院させ、又は入所させるときは、この限りでない。
一  病室又は妊婦、産婦若しくはじよく婦を入所させる室(以下「入所室」という。)には定員を超えて患者、妊婦、産婦又はじよく婦を入院させ、又は入所させないこと。
二  病室又は入所室でない場所に患者、妊婦、産婦又はじよく婦を入院させ、又は入所させないこと。
三  精神病患者又は感染症患者をそれぞれ精神病室又は感染症病室でない病室に入院させないこと。
四 ・・・・・
(以下省略) 


上の三をみていただきたい。

精神病患者は、「感染症患者」と同じような扱いである。
「臨時応急のため入院させ、又は入所させるときは、この限りでない」と
例外規定はあるが、
精神病患者が身体の病気で入院が必要になったときでも、
「臨時応急のため」以外は、普通の病院などに、
入院できないことになる。
一般の人と同じようには、医療というサービスを受けられない。
この日本には、実はこんな法的規則がいまだにある。



そこで話は飛んで、フランスのフーコー
フーコーは、その著作『狂気の歴史』で、次のように書いている。


フーコー語録 1>

「人間は隣人を監禁する最高の権威たる理性のはたらきを通して伝達し、非狂気の無情な言語を介して認知しあう。
・・・・・・・・・・・
精神病をつくりだしている澄みきった世界では、もはや、現代人は狂人と交流していない。すなわち、一方には理性の人が存在し、狂気にむかって医師を派遣し、病気という抽象的な普遍性をとおしてしか関係を認めない。他方には狂気の人が存在し、やはり同じく抽象的な理性、つまり秩序・身体的で精神的な拘束・集団による無名の圧力・順応性の要求たる理性を介してしか理性の人と交流をもたない。両者のあいだには共通な言語は存在しない、むしろもはや存在しないのである。十八世紀末に狂気が精神病として制定されてしまうと、両者の対話の途絶は確定事実にされ、区別は既成事実になり、狂気と理性の交換がいとなまれていたところの、一定の統辞法を欠く。つぶやき気味のあの不完全な言葉のすべてが忘却の淵にしずめられた。狂気についての理性の側の独白(モノローグ)にほかならぬ精神医学の言語は、その上述の沈黙しかもちえなかった。・・・・・・・」


「中世には、そして文芸復興期までは、狂気と人間との論争は、人間を世界のかずかずのひそかな力に対決させる劇的な論争であった。その当時、狂気経験は、<失墜>とか<成就>とか<動物>とか<変身>とか、そして<知>のあらゆる不思議な秘密とかが問題になっていたイマージュのなかでぼんやりとかすんでいた。現代では狂気経験は、あまりにもこの経験を認識しすぎて忘れている知の静けさのなかで沈黙している。・・・・」





(つづく)