大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (14)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 3 (1961年『狂気の歴史』から)


「狂気は、理性と相関的な形式になる。あるいはむしろ、、狂気と理性は、相互にいつまでも置換しうる関係をもつにいたる。この可逆関係によって、どんな狂気も、判断し統御してもらえる理性をもち、どんな理性も、理性がそのなかに自分のわずかな真理を見出すような狂気をもつことになる。一方が他方の尺度であり、この相互的な照合の動きをつうじて、両者はともに相手を否認しあうが、相手に根拠をおいている。・・・」


「・・・つまり、地面すれすれのところにある、事物そのものの象徴であり、恐らく永久に、真理への単一なまっすぐな道をわれわれからうばいとっている、さまざまな対立物の矛盾である。・・・・・こうして無媒介な矛盾に落ちこんでいないものは何もなく、人間をして彼自身の狂気に執着せしめないようなものは何もないのであって、本質や神がもっている真理に照らしてみると、人間の次元に属するものすべては、狂気にほかならない。
 しかも、神に近づくために狂気から離れよ努める動きもまた、人間の次元では狂気である。・・・・
神にむかって歩むとき、人間は以前にもまして狂気にさらされるけれども、最後に恩寵によって人間が押しやられる真理の港は、人間にとって、非理性の深淵でなくてなんであろうか?人がその輝きを認めえた場合、神の知恵は長い間エールをかけられていた理性ではなく、測りしえない深みである。そこでは、秘密はあらゆる秘密の次元をたもち、矛盾は、知恵の中心そのものがあらゆる狂気のめまいであれと願う主要な矛盾のしるしによって、たえず矛盾しあうことを止めない。・・・」


「神の<知恵>とくらべると、人間の理性は狂気にほかならない。人間のうすっぺらな知恵とくらべると、神の<理性>は痴愚神(フォーリー)の大いなる動きのなかに含まれる。大きい尺度ではかると、すべては<痴愚神>の仕業にほかならず、小さい尺度ではかれば、<すべて>はそれじたい狂気なのである。すなわち、狂気は理性との係わり合いによってしかけっして存在しないけれども、理性の真の姿は、理性が否認する狂気をただちに出現させ、今度はこちらが、理性を消滅させる狂気のなかに姿をけすことにある。・・・・・・・
狂気は、それを理性と結びあわせる際限のない円環のなかに含まれ、狂気と理性は相互に強めあい否定しあう。狂気はもはや世界の闇夜のなかに絶対的な実在をもたない。つまり、それは理性との相対性によってのみ実在し、その相対性のおかげで理性と狂気は相互に救いあうことによって、相互に相手を失ってしまう。・・・・・・」






(つづく)