大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (15)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/



フーコー語録 4 (1961年『狂気の歴史』から)



「・・・・狂気は理性のおこなう仕事のなかの、苛酷だが本質的な契機であって、狂気をとおして、しかも狂気が表面的には勝利をおさめている場合にも、理性が姿をあらわし優位をしめる。狂気は理性にとっては、その激しくひそかな力にほかならなかったのである。
 しだいに狂気は無力にされ、〔理性との〕同じ時間は移し替えられる。理性によって取り囲まれている狂気は、理性のなかに、いわば受けいれられて植えこまれたようになる。・・・・
・・・理性はみずからに固有な形象の一つ-外的な力・縮めがたい敵意・超越のしるしとなりうるすべてを悪魔ばらいする一方法であるもの-として、狂気を発見する。・・・・
 だが理性の性質そのもののなかに狂気をさしはさむこうした動きのなかで、パスカルのつぎの考察が曲線を描くのが認められる。--
「人間が狂気じみていることは必然的であるので、狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、やはり狂気じみていることになるだう。」・・・すなわち、理性に内在的な狂気の発見、つぎに、そのことに由来する二重性である。・・・・・
すなわち、狂気の真理とは、狂気が理性にとって内的であり、いっそうよく自分を確保するために理性の一形姿・一つの力・いわば一つの必要である、という点にある。・・」


「文芸復興期の空想上の風景のなかに、一つの新しい事物が出現し、やがてそれは特権的な位置をしめるようになる。それは狂人の船、つまりラインランド地方の静かな河川やフランドル地方の運河にそって進む奇怪な酩酊船である。あきらかに阿呆船は、<アルゴ船物語>という古い作品群から借用されたにちがいない文学的創作であって、・・・・・・一行は船に乗り組んで、象徴的な大航海をおこない、その結果、財宝でなくとも少なくとも彼らの運命や真実の表象を手に入れる、そうした<船>にかんする創作が流行する。・・・・・・
ボッシュの絵画が、こうしたあらゆる夢想の船に属しているのは、もちろんである。
 だが、これらの空想的あるいは嘲笑的な船のうち、阿呆船だけが現に実在した唯一の船である。実際、気違いという船荷をある都市から別の都市へはこんでいた船が実在したのだった。当時、狂人は容易に放浪しうる生活をいとなんでいた。都市は狂人を市域のそとに放逐しがちだったし、ある種の商人や巡礼たちに預けられなかった場合、彼らは人里はなれた野を自由にさまようことができた。この慣習はとくにドイツでたびたび見かけられた。・・・・・」



「狂気の古典主義的な経験が生れる。十五世紀の地平に登場した狂気の非常な威嚇はやわらぎ、ボッシュの絵画に住みついていた不安な魔力はその凶暴さをなくしてしまった。その形式のいくつかが存続してはいるが、今では、それらは透明であり、従順であって、止むをえず理性のお供として後に従っている。狂気は、世界と人間と死が果てる境にある、終末論の一形姿ではなくなってしまい、あの夜ー狂気がそれを凝視し、そこから不可能なるものの諸形態が生れでたあの夜は消えうせてしまっている。かつて自由な奴隷状態である<阿呆船>が縦横に行きかっていたそうした世界は人々に忘れさられている。・・・・・・・・
 狂人の舟が寿命をまっとうして一世紀ばかり過ぎさると、<狂人施療院>という文学上の主題があらわれるのが認められる。そこでは、つなぎとめられ、命令をくだされた、うつろな顔の人々が人間どものまことの理性に服従して、たとえば矛盾と皮肉を、<知恵>の二重の言語をしゃべっている。・・・・・
そこでは、それぞれの狂気の型に応じて、整備された居場所、符牒、そして守護神がおのおの定められている。・・・・・・
無秩序の世界のこうした住人たちは、今度は、きわめて秩序正しく、<理性>の礼賛を口にする。〔阿呆船への〕乗船に続いてこの<施療院>ではすでに監禁がおこなわれている。
 押さえつけられながらも、狂気は自分の君臨時代の外観はすっかり保持しているけれども、今では、理性の行う処置の、そして真理の働きの一部となっている。・・・・・」





(つづく)