大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (16)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/



フーコー語録 5 (1961年『狂気の歴史』から)




「 文芸復興によって、その声が解き放たれたが、早速もう、その凶暴さが抑制されてしまった<狂気>、古典主義時代は、それを異様な権力的強制によって静めるようになる。
 デカルトは、懐疑の道程において、夢および、あらゆる形態の錯誤と並んで狂気に出会った。・・・・・・・・

・・・・狂気の支配力によって、狂気の真理の動きも根本的なものも危うくされないのは、狂人の思考のなかでさえも、ある事柄は虚偽とはなりえないからではなくて、思考している私、その私が狂うことはありえないからである。・・・・

夢想とか錯覚は、真理の構造そのもののなかで征服されるのに反して、狂気は、懐疑する主体によって排除されているのである。ちょうど、懐疑する主体が思考しないこと、および、その主体が存在しないことはいずれ後には排除されてしまうように。・・・・・・

人間は自分が夢を見ないという点についてかならずしも確信をもてないし、気違いじみていないという点について、決して自信をもてないのである。「われわれは、われわれの判断のなかにさえいかに多くの矛盾を感じているかを、なぜわれわれは思い出さないのか?」(*モンテーニュ「エセー」)
 ところが、デカルトは、あの確信-狂気はもはや自分と関係をもちえない-を今や手に入れて、それをしっかりと保持している。自分が狂っていると想像することは狂気の沙汰といえるだろうし、思考経験として、狂気はそれじたい矛盾していて、それゆえに〔思考の〕企図から除外されている。こうして、狂気の危険は、<理性>の働きそのものから消えさったわけである。理性は、自我の完全な所有のなかに保護され、そこでは、錯誤以外の罠、幻覚以外の危険に出会うことはない。デカルトの懐疑は、感覚の呪縛を解き、真なるものの光にたえず導かれて夢の風景を通り抜ける。だが、その懐疑は、懐疑する人、つまり思考し存在しないのと同じく気違いじみたことのできない人の名において、狂気を追放するのである。・・・・

 狂気は一つの排除区域のなかに閉じこめられたのであり・・・・・十六世紀のの<非=理性>は、一種の開かれた危険を形づくっていて、その威嚇はつねに、すくなくとも権利においては主体性と真理との関係を危うくする可能性をもっていた。だが、デカルト的懐疑の道程が証拠だてていると思われるのは、十七世紀になると、そうした危険はとり除かれて、狂気は、主体が真理を求める権利を保有しているとされるその帰属領域、つまり古典主義的思考にとって理性そのものである領域のそとに置かれるのである。以後、狂気は追放されるのである。

・・・一本の分割線が引かれたわけであって、その結果やがて、文芸復興期にはあんなにも親しいものだった、非理性的な<理性>、理性的な<非理性>の経験は存在しえなくなるだろう。モンテーニュデカルトのあいだに、一つの事件が経過したわけである。・・・・・・」





(つづく)