大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (18)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 7 (1961年『狂気の歴史』から)


「・・・・・・こうした<一般施療院>の編成-王権とブルジョアジーの凶暴の産物にちがいない-には関与しなかったとはいえ、教会はやはりこの動きに無縁のままではなかった。教会は、その救済制度を改革し、その施設の財産を配分しなおし、さらに、<一般施療院>の目的とほぼ同じ目的を定める修道士会を創設さえした。・・・・・・・・
これらの施設では、読書・礼拝・祈祷・瞑想などの規則正しい日課が定められた。・・・・・

 こうし救済院は、貧民の保護にあてられているほか、ほとんどが、拘禁独房や強制収容施設をそなえていて、そこへ、国王あるいは家族によって費用をまかなわれる受給者たちが収容される。「どんな人であれ、またその理由のいかんを問わず、慈善本位の聖職者による監禁施設に収容される者は、国王ないし法律の命令によって連行される者にかぎる」というのである。こうした新しい収容施設は、もとの癩施療院の内部に設置される場合が極めて多く、聖職者たちの決定のおかげにしろ、十七世紀末にくだされた国王の布告にしろ癩施療院の設備をうけついでいる。
・・・・・・

 文芸復興以来、病者がいなくなった癩施療院が、十七世紀にふたたび採りあげられ、わかりにくい権力によって編成替えされた。・・・・中世紀が癩者の隔離をつくりだしたのといささか似た仕方で、古典主義は監禁をつくりだした。癩者が居なくなったその場所はヨーロッパ世界に新しく出現した人々によって占められた。それが≪監禁された人々≫である。癩施療院は、医学的な意味しかもたなかったわけでなく、呪われたこれらの空間へ通じるあの追放という行為のなかには、他にも多くの機能がはたらいていた。だが、監禁という行為も同じように単純ではないのであって、その行為もまた、政治的、社会的、宗教的、経済的、道徳的な意味作用をになっている。・・・・
 実際、この現象はヨーロッパ的な規模をもっていた。フランスではそれは、絶対王制の設立と反宗教改革時代における熱烈なカトリッ復興によって、政治権力と教会とのあいだの競合と共謀というきわめてと主な性格をおびた。・・・


宗教と公共の秩序、救済と懲罰、慈善と行政的配慮-こうしたものにかかわる事業たる大救済院、監禁施設こそは、古典主義時代の一産物である・・・・・」


「ドイツ語圏の諸国では・・・矯正院の創立であって、最初のそれは、フランスの監禁施設よりも古く(ただし、リヨンの慈善院を例外として)、一六二〇年ごろハンブルクに開かれた。他の矯正院は同じ十七世紀の後半に創設された・・・・・・・イギリスでは監禁の起源はいっそう古い。一五七五年のある法令(エリザベス一世治世第十八年における第三号法令)は、「放浪者の処罰と貧民の負担軽減」の双方に関するものであって、その法令により、各州すくなくとも一つの割合で、感化院の建設が定められた。施設の維持は税収入によって確保されるようになっているが、篤志家による寄付が奨励されている。・・・・・・・・・・」





(つづく)