大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (19)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 8 (1961年『狂気の歴史』から)



「数年のうちに、こうした網目がすっかりヨーロッパにはりめがらされた。十八世紀末にハワードはそれをひとわたり見てまわる計画をたてて、イギリス、オランダ、ドイツ、フランス、イタリヤ、スペインにある、監禁の著名な施設-「施療院、監獄、収容所」-をすべて巡回する計画をたてるが、彼の博愛精神がひど傷ついた事柄といえば、一般法による受刑者、家庭の平安をみだし財産を濫費する子弟、放浪・無頼の徒、狂人、これらがひとしく同じ施設内に送りこまれていた点である。こうした証言こそは、すでにこの十八世紀末という時期に、ある種の明白な事実-監禁という古典主義的秩序のこの分野が、全ヨーロッパにきわめて急速に、自然発生的に出現するにいたった、その背景にある事実が見失われた事態をしめすのである。監禁は百五十年のうちに、異質な諸要素からなる、人の目をあざむく混合体になったのだ。・・・・・」




宗教改革によって、新教徒諸国では慈善事業の民間移譲がおこなわれたと言うのは一つの決り文句である。だが、国家や都市は、あらゆる貧乏人と無能力者を自分の思い通りにすることによって、貧困〔=悲惨〕にたいする新たな感受性をつちかうようになったのである。・・・・・・
人間に社会への義務だけは失わないようにさせて、貧困が無秩序の結果であると同時に秩序の障害であることを明らかにする。したがって、貧困をやわらげる行為がある以上、貧困を称揚することはもはや重要ではありえず、ただ単に、それをなくすることが重要になる。<慈善>が、こうした<貧乏>にさしむけられたとしても、その<慈善>もまた無秩序の産物なのである。・・・・・・」




「今後、もはや、貧困は、屈辱と栄光の弁証法のなかでは把握されずに、貧乏を罪過のなかに閉じこめる、秩序にたいする無秩序の一種の関係のなかで把握される。ルターやカルヴィン以来すでに、時間に無関係な懲罰という刻印をつけられていた貧困は、国家の管轄下におかれた慈善事業の世界では、やがて、自己満足のあらわれ、国家の正しい進展にたいする非行となるだろう。貧困を神聖視する宗教経験から、それを非難する道徳観念へと、その位置が変るのである。こうした進化のはてには、大規模な監禁施設はどれもひとしく同じような性格をあらわす。なるほど慈善の民間移譲ではあるが、はっきりしないながらも、貧困へ道徳的懲罰である。・・・・・・」




「・・・・カトリック教会はこぞって、ル十四世の命じた<大監禁>を承諾した。この事実そのものによって、もはや貧乏人は、キリスト教徒に慈善をうながすため、彼に懲罰の機会を与えるために神がつかわしたもうた口実とは認められなくなった。・・・・・・あらゆるカトリック教徒は貧乏人たちが「同情すべき彼らの身体的な惨めさによってよりも、人を怖気づかせる彼らの精神的な惨めさによって、共和国のどん底にある人々、その屑」であると考えはじめる。
 カトリック教会はその方針を確定したわけである。そうすることによって教会は、かつて中世がその全体において承認してきた貧困〔=悲惨〕をめぐるキリスト教徒的な世界を分割したのである。一方には、善の領域、つまり指し示される秩序に合致し服従する貧乏の領域が、他方には、悪の領域、つまりそうした秩序をのがれようと努める不服従な貧乏の領域が存在することになろう。前者は監禁を受け入れ、そこに安静を見出し、後者は監禁を、したがって、その価値を拒む。・・・・・・」






(つづく)