大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (21)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 10 (1961年『狂気の歴史』から)




「 十七世紀の全ヨーロッパにその徴表が認められる、あのどっしりとした巨大な事実である監禁は、<治安>の問題である。・・・・・<治安>とは、労働をぬきにしては生活しえないすべての人々にたいして、労働を可能にし必要とさせる方策の総体をさす。
・・・・・・
医学上の意味をおびる以前に、監禁は病気治療の関心とはまったく別の意図によって要請された。それを必要にしたのは、労働がもとめる要求である。博愛精神によってわれわれは監禁に、病気を治そうという配慮のしるしを認知したがるけれども、そこには実は、無為怠惰にたいする非難だけがはっきり示されているのである。・・・・」




「ヨーロッパのどこにおいても、監禁はすくなくともその起源では、同じ意味をになっている。それは、西欧世界全体に作用した経済危機に対して十七世紀に採られた対応策の一つを形づくっている。実際、賃金の低下、失業、貨幣価値の下落といった事実の総体は、多分、スペイン経済の危機に基因しているにちがいない。・・・・・・」




「 しかし、危機の時期を別にすると、監禁は別の意味をおびる。その抑圧の機能は、新しい効用によって補足されるのである。もはや失業者を閉じこめることが問題ではなくて、被収容者に仕事を与えて、万人の繁栄のために彼らを役立たせることが重要である。明らかに役割の交替が認められるのであって、完全雇用と高賃金の時期における、安い労働力、その一方では、失業の時期における、怠け者の再吸収と暴動や動乱の社会的な防止が目指される。・・」




「・・・・傲慢が、楽園追放以前の人間の罪だったが、失業後には、怠惰の罪が、人間の最高の傲慢であり、貧困〔=悲惨〕のもつ下らぬ傲慢である。もはや大地には、茨や雑草しかおい繁らないような、われわれの世界では、怠惰が最高の罪過となる。中世では、大きい罪、あらゆる悪の根本は尊大傲慢だったし、文芸復興の黎明期には、ホイジンガを信じるならば、最高の罪は、<貪欲>という姿、ダンテのいう盲目の貪欲だった。ところが反対に、十七世紀のあらゆるテキストでは、安逸怠惰がすさまじい勝利をおさめることになる。今や、安逸怠惰こそが諸悪の輪舞をみちびき、それらを引きずりまわすのだ。<一般施療院>は、「あらゆる無秩序の根源たる物乞いと無為を阻止すべし」と、その創立の勅令に述べてあることを忘れてはならない。・・・・・・」



「 経済と道徳が結びあって望む、監禁制度への無理な要求が形づくられたのは、労働にかんする経験をとおしてである。労働と怠惰は古典主義時代の世界に一本の分割線をひいたが、その線は、例の癩病の大がかりな排除に入れ替わるものだった。精神界の風景のなかでと同様に人のよりつかぬ監禁地の地誌のなかで、収容施設は癩施療院にまぎれもなく取って代わったのである。人々は、追放という古来の慣習を、ただしこんどは生産と商業中心の世界に復活させた。・・・・・・」





(つづく)