大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (22)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 11 (1961年『狂気の歴史』から)




「・・・だから、<一般施療院>は、老齢、不具、病気のゆえに働けぬ人々のための単なる保護施設という姿をもたなくなる。強制労働をおこなう仕事場という側面をもつだけでなく、むしろ、ある種の道徳的<欠如>を罰し矯正するための訓育施設という面をもつようになる。・・・・・」



「 道徳が行政上の指示をとおして重圧を加えるような、強制収容の場所をこのように作りだしたことは重要な現象である。道徳的な義務づけと市民法とが驚くべき綜合をおこなう、道徳本位の施設が、初めて創設されたのである。国家の秩序は、もはや心情の無秩序を許容しない。・・・・」


「監禁は十七世紀に固有な制度上の産物である。・・・・・それは経済上の措置、社会的な安全策という点で新機軸の価値をもっている。ところが非理性の歴史のなかでは、それは決定的な事件をしめすのである。すなわち、貧困、労働にたいする無能力、集団への不適応などの社会的視野のなかで、狂気が知覚される契機、そしてまた、狂気が都市の諸問題と関連をもちはじめる契機をしめすのであるから。・・・・・・
 ある一つの感受性が生れたのである。ある一線を画し、敷居を高くし、そして、選択し、追放する一つの感受性が。・・・・・・・すなわちそこでは、もはや秩序は勝手気ままに無秩序に立ち向わない、もはや理性は、理性を避けるかもしれないものや拒否しようと努めるものすべてをみずから乗りこえて進む努力をしない。理性は、鎖をとかれて荒れ狂う非理性にうち勝つようにあらかじめ配慮されていて、純粋な状態で勝ちほこったように支配権をふるうのだ。他方、こうして狂気は、文芸復興期の天空に依然として多数の狂気を住まわせていたあの想像力の自由奔放さから引き離された。・・・・・・」





(つづく)