大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (30)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 19 (1961年『狂気の歴史』から)



「・・・・・法律上の処置のやや下部のところに、制度とすれすれのあたりに、また、狂人と狂人ならざる者とが対比され、区分され、相手を巻添えにしあい、相手を認知しあう、あの日常的な議論のなかで、いくつかの形姿がこの数年間に形成されたのである。それは明白に決定的な形姿である。というのは、それらこそが≪実証的な精神医学≫をもたらしたのだから。しかも、それらに由来して、狂気の、ついに客観的、医学的な認知という神話が生れたのであり、その認知はそれらを真実の発見および解放として是認しつつ、それらを-機を失してではあるが-正当化したのであった。・・・・・・・

 第一に、その一つのなかで合流したのは、今では縮小され限定されている古い監禁空間、および、別の所で形成されて連続的な変化と純化によってのみこの監禁空間に順応しえた医学空間であった。
 第二に、もう一つの構造は、狂気と、それを認知し監視し判断する側とのあいだに、新しい中立化した関係を、おそらくあらゆる共犯関係から清められて客観的な視点に属している関係をうちたてている。
 第三に、第三の構造では、狂人は自分が犯罪者と対比されるのを見出している。・・・・・・・」



「・・・・狂気はもはや、無秩序、不規則、正体のわからない過失-国家を乱し道徳にもとる、人間のなかの混乱にほかならなくなる。・・・・・」


「・・・・子供と狂人とはつねに世間の心遣いの対象だったのである・・・・けれども、人々が子供に自然にいだく同情が積極的な心の傾きであるのにたいして、狂人への憐れみは、乱暴と躁暴とにおちいるこの異常な実在にたいして人々が感じる恐怖心によって、ただちに相殺され、消しさられさえするのである。つまり、「人々はいわば彼らから逃れようという気持ちになるのであって、それは彼らが顔や体にもっている恐ろしい特徴とか、彼らの理性の脱落とかの悲痛な光景を見ないためである。しかも、彼らを援助する義務のない人々は彼らの乱暴を恐れて遠ざかる。したがって、抽象的な憐れみによって規定される救済の義務と、現実に感じられる恐怖のひきおこす正当な観念とのあいだで、中間の道を見出さなければならない。ごく当然ながらそれは、壁の内側での救済、恐怖心が定める一定距離をおいたうえでの援助、一世紀以上も前から監禁によって設定され、しかもそれによって空虚となった空間のなかで展開されようとする憐れみになるだろう。・・・・・・・感情と義務との-憐れみと恐怖との、救済と安全保障との-一種の妥協点をしめすようになろう。・・・・・・」・・・・

・・・・もっとも決定的な事柄は、狂人の単なる幽閉と、狂人を病人と見なすかぎりにおいて彼らに加えられる医学上の手当、この両者を釣合わせようとする試みが、まだためらいがちにではあるが、おこなわれている点である。狂人の閉じ込めは、本質的には、狂人の危険から社会をあらかじめ守ることである。・・・・・・・」



「・・・・監禁と手当とのつながりは時間的な次元にしか属さない。両者は正確には同時におこなわれるのではなく、交替しておこなわれる。すなわち、病気が治りうると見なされる短期日のあいだ、手当がほどこされ、そのすぐ後に、監禁が幽閉という唯一の機能を発揮するようになるのである・・・・・・

以前には、手当はパリ市立中央病院でおこなわれ、監禁はビセートルでおこなわれていたのだった。ところが今や、医学の機能と幽閉の機能とが順順に、しかも唯一の構造のなかで営まれる一つの監禁形態が計画されているのである。許しがたい異常として狂気を指示する追放的な空間をとおして、狂人から社会を守ること、- 他方、すくなくとも権利としては狂気が一時的と見なされる病気回復の空間をとおして、病気にたいして防御すること、こうした二つの型の処置、これまで異質な二つの経験形態をおおい隠していたそれらの処置は、依然として合致しないまま、重なり合おうとしているのである。・・・・・

・・・・・監禁を模様替えし、そのなかに隠されていた真実を強調し、そのなかにぼんやりと張られていたすべての糸をぴんと緊張させることによって、狂気を理性につれもどす動きのなかで監禁に医学的な価値を与えることが重要なのである。・・・・・・・」





(つづく)