大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (31)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 20 (1961年『狂気の歴史』から)



「・・・・・・完全に狂気を統御しようと努めずに、むしろ監禁は狂気にたいして後退した位置をしめねばならぬかのように機能するのであって、その後退のおかげで、狂気は狂気じたいとなりうるのであり、絶えざる抑圧が加えられれば必ず生じるすべての副次的反応-乱暴・熱狂・狂乱・絶望-をともなわない自由な姿で現れうるのである。古典主義時代は、少なくともいくつかの神話では、狂人の自由を動物性のもっとも攻撃的な形態と同一視してきたのだった。つまり、狂人と動物のと共通点は破壊だったのだから。ところが今や、狂人には温和な動物性が存在しうるという主題があらわれるのであり、その動物性は荒々しさで狂人の人間的真実をうちくだくのではなく、自然本来の秘密、忘れさられてはいるがやはり親しみぶかい内実を明るみに出し、狂人を家畜や子供に似かよわせるというのである。

・・・・・・しかもツノンの考えによると、監禁の実務の理想は聖ルカ病院でおこなわれている実務であって、そこでは狂人は、「自由にふるまっていて、望むがままに自分の独房から出て、廊下をあるきまわったり、野天の散歩場へ行ったりしている。やむをえず興奮すれば、自分を制御してくれる衝動に狂人がいつも身をまかせられるようにするため、取りはずしのきく屋根が必要であった」。・・・・・・・精神分析による解放以前の、精神医学の歴史全体に非常な重みをかける考え方が、はじめて形づくられたのである。・・・・・こうした半自由の状態、檻のなかの自由は治療上の価値をもっていると彼らは想定するのである。・・・・・・・

ところが、人間が束縛されればされるほど、その想像力はますます勝手に動きまわり、身体の服従する規則が厳格であればあるほど、その夢想およびイマージュはますます奔放となる。その結果、拘束の鎖よりも自由のほうがいっそう想像力の働きを禁じるのである。・・・・・・その病院(*聖ルカ病院)では、「一般に狂人は日中は自由にさせられている。理性の歯止めを知らない人間にとって、すでにこの自由は、錯乱するか迷っている想像力の鎮静をあらかじめ助ける治療薬である」。それじたいとして、しかもこうした幽閉された自由にほかならぬ監禁は、したがって、治療の動因である。それが医学的であるのは、手当がほどこされるからではなく、想像力・自由・沈黙・限界などの作用そのものによってであり、それらを自然発生的に組織化し、錯誤を真実へ、狂気を理性へつれもどす動きによってである。監禁されている自由がそれじたいの力で治すのである。やがてのちに精神分析において、解放された言語がその役目をはたすように。ただし、正反対の動きによって病気を名治すのである。・・・・・・・」



「監禁は医学の高貴さという信用状を手にいれたのだから、それは治療の場となった。・・・・・・・
 重要なことは、狂人保護院への監禁施設のこの変化が、医学の漸次的な導入-外部からの一種の侵入-によってではなく、古典主義時代が幽閉と矯正の機能しか与えなかったこの監禁空間の内的な再組織化によって、おこなわれた点である。監禁の社会的意義の漸次的な変質、抑圧への政治的批判と救済への経済的批判、狂気による監禁の全領域の専有-非理性の他のすべて諸形態がしだいに解放されたから-、これらすべてのおかげで、監禁は狂気にたいして二重の点で特権的な場となったのである。・・・・・・・・

 狂人の危機にたいする防衛、ならびに病気の治療-こうした機能は、いわば突然の調和をついに見出すのである。というのは、閉じられているが空虚な監禁空間でこそ、一挙に狂気はその真実を表明し、その性質を解き放ち、しかも監禁という作業だけで、おおやけの危険は払いのけられ、病気のしるしは抹殺されるのだから。・・・・・・」



「監禁それじたいが、しだいに治療上の価値をおびてきた・・・・・
しかもそうなったのは、社会的ないし政治的なすべての行為が、想像上ないし道徳上のすべての儀礼- 一世紀以上も前から狂気と非理性を悪魔ばらいのように払いのけてきた儀礼が再調整されたからである。」



「・・・・人々が狂気に与える半自由、狂気が経過してゆく時間、最後に、狂気を監視しとり囲んでいる視線、それらにたいして狂気は新しい関係をむすぶのである。狂気は監禁というこの閉ざされた世界-狂気にとって自らの真実であり同時に自らの居所である世界と必然的に一体となる。・・・・・」





(つづく)