大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (32)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 21 (1961年『狂気の歴史』から)



「だが、自由と理性には同じ限度がある。理性が損なわれる場合、自由は拘束されうるのであって、しかも、理性のこうした毀損は、まさしく、本人の生存や他人の自由をおびやかす理性の毀損でなかればならない。すなわち、「人間が自分の理性的な諸能力を享受しているとき、つまりその能力が他者の安全と平穏を危うくしたり真の危機にさらす程度にまで損われないかぎり、誰にも、たとい社会全体にも、人間の独立をいささかたりとも侵害する権利はないのである」。こうして、自由が狂気じたいとのあいだに結びうる関係をもとにした、狂気の定義が準備される。・・・・・・・・」




「監禁は狂気をはかるいわば永遠の尺度のような役目をはたし、狂気の変りゆく真実にたえず順応しなければならず、そのかぎりにおいてのみ、しかも自由が疎外される限度においてのみ束縛を加えなければならないのである。つまり、「人間性、法、医学が命じるのは、他人とってほんとうに害となりうる狂人のみを閉じこめることであり、拘束しなければ自分に危害をくわえるような狂人のみを拘束することである」。
・・・・・つまり自由と束縛の行使にあたっての、ある種の厳正さ、自由の疎外への、拘束のできうるかぎり厳密な合致。そして、こうした法の具体的な形式、それの可視的な象徴は、もはや鎖-「身体局所をつねに傷つけ圧迫する」処罰中心の絶対的な束縛-のなかにはなく、やがて名高い拘束衣となるもの、動作が荒々しければ荒々しいほどますます窮屈にするはずの、「両腕を締めつける、ズック製か丈夫な亜麻布製のチョッキ」のなかにある。この拘束衣を、人間むきに鎖を変えたものとして、≪自己拘束≫への一進歩として理解してはならない。拘束チョッキについては概念的な結論が出されているが、それによると、狂気では、理性と非理性との絶対的な比較対照はもはや体験されずに、自由とその限度とのつねに相対的でつねに流動的な働きが体験されるのである。・・・・・・・・」



「狂気は監禁によって自分の真実をくりひろげ、年代記および歴史の時間のなかに置かれ、以前に非理性という深い現存を還元不可能にすることができたすべてから解き放たれる。このようにいわば武装解除された狂気は、危険さを失って交換作用をいとなむことができるのである。狂気は伝達可能となる。ただし、あらわにされた客観性という中立化された形式で。・・・・・悪の見せしめとなっていたあの形式によってでなく--、静かな客体、そのなかでは何ものも隠されぬようにしつつ一定の距離によって隔てられる客体、混乱をおこさせずに教示する数々の秘密を故意の言い落しなしに明らかにする客体、こうした客体という形式によって。・・・・・・」



「これこそ、人々の視線にさしだされた狂気である。古典主義時代の監禁で自分の動物性を見世物としていたときすでに狂気は人々の視線にさしだされていた。だがその場合には人々の視線は、幻惑させられた視線であった。人間が狂気というごく奇異な形姿のなかに自分自身のものであった動物性を凝視していたという意味において、また、錯乱状態の奇怪さによって非人間的なものとされ世界のもっとも隔たった所におかれていたこの実在を、人間が限りなく近しいものとして、また限りなく遠いものとして混乱した仕方で認めていたという意味において、幻惑させられた視線だったのである。人間が自分自身のうちにひそかに感じていたのは、この実在であった。ところが今や、狂気にむけられる視線はこんなに多くの共犯関係を託されてはいない。視線は一つの客体にむけられているのであり、それは、すでに形づくられている論理的推論による真実のみを介して、この客体に達する。狂人は狂気の抽象化によって、いわば上澄みを移しとられたような形でしか視線に現れないのである。・・・・・・」





(つづく)