大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (34)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 23 (1961年『狂気の歴史』から)



「・・・・十八世紀末における保護院の世界に特有な・・・・構造をつけ加える必要があるろう。・・・それは医学的人間ににたいする過度の崇拝である。・・・・・というのはそれは、医師と病者とのあいだの新しい接触のみならず、精神錯乱と医学的思考とのあいだの新しい関係をも許容し、要するに近代の狂気経験のすべてを支配するようになるだろうから。これまでは、人々が狂人保護院のなかに見出したのは、監禁がもっていた構造そのもの、ただし、ずれや変形をともなった構造であった。だが、医学的人間の新たな地位のおかげで消えうせるのは、監禁のもっとも深い意味である。こうして、われわれがいま認識する意味での精神病が存在可能となる。・・・・

 われわれが検討してきたとおり、かつては医師は監禁の生活に関係をもっていなかった。ところが保護院では根本的な人物となるのである。医師が保護院への出入を命令するのであって、<隠退施設>の規則がそれをつぎのように定めている。「病者の入院許可については、通常、委員会は医師の署名のある証明書を求めなければならない。・・・・・・」十八世紀末以来、狂人を監禁するには医師による証明がほとんど義務として強制されていた。だが、保護院の内部そのものでは医師は、彼がそれを医学的空間に模様替えするにつれて、優越した地位をしめる。・・・・・・」



「・・・医師のおこなう定期的な回診や、施設のなかで医師がふるう権威、すべての監視者よりも医師を上位においている権威、そうした点では、「医師は病者の精神に、他のすべての監視者たちよりいっそう大きい影響力をあたえる」。・・・・・・・医学的人間が狂気を包囲することができるのは、彼が狂気を認識するからではなく、狂気を支配するからである。・・・・・・・


ピネル流の医学的人間は、病気の客観的な定義やある種の分類本位の診断を出発点にして活動するのではなく、<家族>・<権威>・<処罰>・<愛>などの秘密が閉じ込められているこうした影響力を根拠にして活動しなければならなかったのである。しかも、こうした影響力をふるうことによって、また<父親>と<裁判官>の仮面をつけることによって、医師は自分の医学的能力を使う必要のない近道を突然とりつつ、治療のほとんど魔術的な操り手となり、魔術師のすがたをおびる。狂人たちのひそかな罪があらわれ、その気違いじみた思いあがりが消えてなくなり、最後に狂気が理性のいいなりに
静まるためには、医師が見つめ、話しかけるだけで充分だ、というわけである。・・・・・・・」




「ピネルからフロイトにいたる、十九世紀精神医学の認識および実践における客観性という深遠な構造を分析したい場合には、まさしく、この客観性がもともと魔術的次元の物象化である点を明らかにする必要があるだろう。しかも、この物象化は病人自身との共謀関係があってはじめて、成しとげられることができ、その出発点には、はじめは澄明で明瞭な道徳中心の実践、だが実証主義が学問上の客観性という自分の神話を押しつけるにつれて、しだいに忘れさられる道徳中心の実践のみがあった。・・・・・・・・」




「こうして、十九世紀の精神医学全体が実際にフロイトという一点に集中する。彼こそ、医師-病人の組み合せの現実をまじめに受けいれた最初の人であり、その現実から自分の視線と研究とをそらせないことに同意し、その現実を、多少とも他の医学的認識と釣合いを保っている一つの精神医学理論のなかに隠そうと努めなかった最初の人、この現実のもたらす結論をきわめて厳密にたどってきた最初の人である。フロイトは、保護院の他のすべての構造の欺瞞を解いた。すなわち、例の沈黙と視線をなくしてしまい、自分自身の光景をうつす鏡のなかでの、狂気じたいによる狂気の再認をやめさせ、有罪宣告をおこなう審判を中止させた。だがそのかわりに、医学的人間をつつむ構造を充分に活用して、その人間の魔術師としての力を増加し、その全能の力にほとんど神のごとき地位をあたえた。・・・・・・」




「 錯乱〔=疎外〕をおこさせる人物であるかぎりにおいて、医師はやはり精神分析の鍵である。多分、精神分析がこの医師-病人という最後の構造を除きさらなかったからこそ、また他のすべての構造をそこにつれ戻したからこそ、それは非理性の声に耳をかたむけることも、気違いの徴表をそれらじたいのために弁別することもできないでいるし、今後もできないだろう。なるほど精神分析は狂気の若干の形態を解きあかすことはできるのだが、非理性の絶対至高の働きには無縁なままである。この働きのなかにある根本的なものを解放することも、書き写すこともできないし、また説明することはできないのである。・・・・・・・・・・・・・」







(つづく)