大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (36)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/






フーコー語録 24 (『フーコー思考集成』(筑摩書房)から)



83 狂気と社会 1970 日本講演  (神谷美恵子訳)

「だいたい、人間の活動領域は次の四つに分けてみることができます。
一 仕事、または経済的生産。
二 性、家庭。すなわち社会の再生産
三 言語、パロール
四 あそびや祭など、遊戯的活動
ところで、どの社会においても、この四つの領域において一般にきめられているルールからはずれて、他人とはちがった行動をとる人びと、いわゆる周辺的marginalな個人が存在します。・・・・・・・・

 以上の場合、疎外される人びとは、それぞれの領域で別の人ですが、全領域にわたって疎外される人というのがあります。それが狂人です。あらゆる社会、またはほとんどすべての社会で、狂人はすべてにおいて疎外され、場合によっては宗教的、魔術的、遊戯的、または病理学的な地位を与えられています。たとえばオーストラリアのある未開民族では、狂人は超自然的な力を持っている者として、社会にとっておそるべき存在とみなされています。また狂人のなかには社会の犠牲になる者もありますし、いずれにしても、仕事、家庭、言語、あそびにおいて一般の人たちとはちがった行動をとるものとされています。
 次に私が言いたいのは、現代の産業社会においても、まったく同形の疎外体系によって狂人が一般社会から排除され、周辺的な性格をになわされている、という事実です。
 第一の仕事という点についていえば、現代でも、ある人を狂気と判断する基準は、「仕事のできない人」ということにあります。フロイトがいみじくも言ったところによると、狂人(フロイトは主として神経症の人のことを言ったのですが)とは働くことも愛することもできない人である、とのことです。・・・・・ヨーロッパの中世紀においては、狂人の存在は許容されていました。彼らはときに昂奮したり、情緒不安定だったり、怠け者だったりしたわけですが、あちこちを放浪することが許されていたのです。産業社会の要請に応じて、フランスとイギリスでほとんど同時に彼らを収容するための大きな施設がつくられました。そこに入れられたのは精神病者だけでなく、失業者や不具者や老人など、すべて働けない者が収容されたのです。
 歴史家の伝統的な見かたによると、十八世紀の終り、つまりフランスでは一七九三年に、ピネルがサルペトリエール病院で狂人を鎖から解放したとされ、イギリスではほぼ同年に、クェーカー教徒のテュークが初めて精神病院をこしらえたとされています。それまで狂人は犯罪者とみなされていたのを、ピネルやテュークが初めて彼らを病人として扱ったのだ、ということになっています。しかし、この見かたはまちがっている、と言わざるをえません。第一に、フランス革命以前に狂人が犯罪者と考えられていたという事実はないのです。第二に、狂人が昔からの地位から解放されたと考えるのは偏見です。
 右の第二の考えのほうが第一の考えよりも、なおいっそう大きな偏見でしょう。だいたい、未開社会にも産業社会にも、また中世紀にも、二十世紀にも、狂人に与えられた普遍的地位というものがあります。ただ一つのちがいといえば、十七世紀から十九世紀にかけて、狂人の隔離収容を要求する権利は家族にありました。つまり家族がまず狂人を疎外したわけです。ところが、十九世紀以来、家族のこの権限はだんだん失われ、医者の手に移されました。狂人を収容するには医学的鑑定が必要とされるようになり、いったん収容されれば、狂人は家族の一員としての責任も権利も奪われ、市民権をも失い、禁治産者となりました。つまり、医学よりも法律のほうが先に狂人に周辺的地位を与えた、ということもできます。
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 中世紀とルネサンスにおいては、狂人は社会の内部に存在することを許されていました。いわゆる村の狂人は、結婚もせず、遊びにも参加せず、他人によって養われ、支えられていました。彼らは町から町へと放浪し、ときには軍隊に入ったり、行商をしたりもしましたが、あまり昂奮して他人にとって危険になると、他人が町のはずれに小さな家をたてて、一時的にそこに入れられたこともありました。アラブの社会では現在でもなお狂人の存在に対して寛容です。十七世紀になると、ヨーロッパの社会は狂人に対して不寛容となりました。その原因は、前にも言ったように、産業社会が形成されはじめたからだと考えられます。一七二〇年から一七五〇年にかけてハンブルク、リオン、パリなどの都会では、狂人だけでなく、老人、病人、失業者、怠け者、売春婦などすべて社会秩序をはみだす者を収容する大きな施設がこしらえられたことも、すでにお話しました。資本主義的産業社会では、浮浪人の集団の存在を許容することはできないからです。パリでは二万五〇〇〇人の人口中、六○○○人が収容されました。こうした施設では治療的意図はまったくなく、人びとは強制的に労働させられたのです。一七五〇年にパリに警察ができ、ここに社会形成のための「基盤縞」ができ、警察がたえず監視の眼をひからせて浮浪者の収容にあたったわけです。
 皮肉なことに、現代の精神病院では、さかんに作業療法がおこなわれています。ここで働いている論理は明白です。仕事ができない、ということが狂気の第一基準だとすれば、病院で働くことを教え、身につけさせれば、それはとりもなおさず狂気の治癒にむすびつくだろう、という論理なのです。
 さて、十八世紀末から十九世紀初頭にかけて、狂人のおかれた状況が変ったのはなぜでしょうか。一七九三年にピネルが狂人を解放したといわれているが、彼が解放したのは不具者、老人、怠け者、売春婦などであって、狂人だけは施設内に残したのです。そして、この時期にこうしたことが起ったのは、十九世紀初めから産業の発達の速度が大きくなり、資本主義の第一原則として、プロレタリア失業者の大群は、労働力の予備軍たるべきものとされたのです。そのため、仕事をする能力があるのに働いていない人たちは、収容施設から外へ出されることになりました。けれども、ここに第二の選択過程がおこなわれて、働きたくない人でなく、働く能力のない人、すなわち狂人たちが収容所に残され、この人たちは器質的または心理的原因による病人とみなされることになったのです。
 こうして、それまでは単なる収容施設であったものが精神病院となり、治療機関となりました。したがって、(1)身体的理由でなく働く能力のない者を収容する病院の組織と、(2)非身体的な理由で働けない者を収容する病院の組織とができたわけです。このときから精神障害が医療の対象とされ、精神科医という社会的カテゴリーが生れました。
 私はべつに精神医学を否定したいと思う者ではありませんが、この狂人に対する医療化は、歴史的に言ってずいぶんおそく起ったものであって、その成果が狂人の地位に深い影響を与えるにいたっているとは思いません。だいたいなぜこの医療化が起ったかといえば、主として前述の経済的・社会的原因のためであって、このために狂人イコール精神疾患者ということになり、精神疾患という一つの実体が発見され、切りぬかれたのです。そして精神病院は身体病のための病院と相称的なものとしてつくられました。・・・・・・・
 結局、本日私はわれわれの社会がいまなお持っている外傷的性格を示したかったのであります。現代において狂人の地位をある程度再評価したものといえば精神分析向精神薬の出現といえましょう。しかし、この突破口もまだやっと始まったにすぎません。われわれの社会はまだ狂人を疎外しているのです。・・・・」





(つづく)