大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかしMattoの町があった」 (38)

全国で自主上映
イタリア映画「むかしMattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 26 (『フーコー思考集成』(筑摩書房)から)




126 「世界は巨大な精神病院である」  1973

「 今日世界は病院モデルへ向けて変化しているので、政府は治療的機能を獲得する。指導者の役目は個々人をまさに社会の整形外科ともいうべき手法で発展プロセスに適応させることである。・・・・・・・
 医学的治療は抑圧の一形態である。精神科医は今日、「正常」と「狂気」を断定的に決定する人物である。反精神医学の重要さは医師のこの確信、医師が持つある個人の精神状態を決定するこの権力に疑念を抱かせることに在る。・・・・・・・・・・通常、自分が生活している社会環境と関係を断った人間は異常だと理解される。一般に医師はその人物を社会環境から引き出し、病院、療養所に隔離する。しかしどのように患者を社会環境に再度適応させるのだろうか。それこそが、精神科医に欠けている点である。治療は患者が住む場所から離れた診察室の長椅子でではなく、患者が生活する社会環境の中で行なわれるべきだろう。・・・・・・・

 世界は巨大な精神病院だ。そこでは支配者が心理学者で、民衆が患者である。犯罪学者や精神科医、あるいは人間の精神行動を研究するすべての人々が演じる役割は日毎に増している。だからこそ、政治権力は新しい機能を獲得しつつある。治療の機能である。・・・・・・」





143  「精神医学の権力」  1973

「・・・・十九世紀の精神病院において働いていた技術と手続きのすべて―隔離、公私を問わない尋問、シャワーをはじめとする懲罰を兼ねた治療、道徳的な対話、(激励ないし叱責)、厳密な規律、強制労働、報酬、医師と幾人の病人との間の優遇的な関係、病人と医師との間の従属や所有や飼い馴らしの関係、時には隷従の関係―こうしたものすべては、医師という人物を「狂気の主人」にするための機能であった。狂気の主人、すなわち、狂気をその真理において(狂気が身を隠し、埋もれ沈黙している時に)出現させる者、狂気を学者(わけしり)顔に鎖から解き放った後、これを支配し鎮静し消散させる者である。・・・・」


「いずれにしろ、十九世紀から精神医学を揺るがしてきた大衝撃はすべて、医師の権力を本質的に問いただしてきたように思われる。医師の権力と、これが病人に対して生産する効果とが、医師の知や、医師が疾病について語ることの真理よりも問いただされてきたのだ。もっと正確に言えば、ペルネームからレインあるいはバザーリアに至るまで、問題になってきたのは、医師の権力が医師の言うことの真理のうちにいかにして含み込まれてきたか、そしてその逆に、医師の言うことの真理が医師の権力によっていかにして作りあげられ巻き込まれてきたかということである。・・・・・・・バザーリア(*映画の主人公)は言う。『こうした制度(学校、工場、病院)の特徴は、権力を保持している者たちと保持していない者たちとの間をきっぱりと分離しているということである。』・・・・・・・・・

バザーリアは言う。『医師の純粋な権力はエスキロル(*19世紀フランスの精神科医)の処方の成果を二十世紀に認証して、恐るべき速さで増大する。その同じ速さ病人の権力は縮小されていく。病人は収容されているという単なる事実によって、権利のない市民となり、医師や看護人の恣意に委ねられる。医師や看護人は、病人が訴えることもできないままに、自分の望むことを病人に対して行なうことができる。』・・・・・・


こうした権力関係において第一に含意されていたのは、非狂気が狂気に対してもつ絶対的な権利だった。それは、無知に対して行使される能力という観点に書き移された権利であり、錯誤(幻覚、錯覚、幻影)を修正する良識(現実との接触)の権利であり、混乱や逸脱に対して課される正常性の権利である。この三重の権力が、狂気を医学にとって可能な認識対象として構成し、これを疾病として構成してきた。その時、そうした疾病に罹った「患者」は狂人として貶められるのだった―つまり、自分の疾病に関する一切の権力と一切の知を奪われたということである。
『きみの苦しみと特異性について、我々は、それが疾病だとわかるだけのことを知っている(それをまさか疑わないだろうね)。しかし、その疾病については、きみがそれに対して、それに関していかなる権利も行使ができないということがわかるだけのことが我々にはわかっている。きみの狂気は、我々の学はそれを疾病と呼ぶことを可能にしてくれているし、だから、我々医師は、介入してきみのうちにしかじかの狂気を診断するだけの資格がある。この狂気は、きみが他の病人のような病人であることを妨げる。きみはしたがって、精神疾患の病人だということになる。』・・・・・・」





(つづく)