大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかしMattoの町があった」 (39)

全国で自主上映
イタリア映画「むかしMattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 27 (『フーコー思考集成』(筑摩書房)から)



161  「ラジオスコピー」  1975


「善悪の対立項で考えないようにするとは、今日の社会がそう認める善悪の対立項では思考しないようにすることです。つまり、境界を移動させること、それもただ単に移動して別の場所に置くのではなく、境界を不確かにすること、揺れ動かすこと、壊れやすくすること、境界の横断、浸透、通過を可能にすることです。それこそが重要なのだと思います。・・・・・・」




「・・・・何千人の単位で、あるいは歴史的な一つの経過をとってみると、何十万人の単位で、かれらは間違いなく監禁されました。牢獄のような場所に閉じ込められ、そこで苦悩し、語り、叫び、抗議の声をあげました。・・・・精神病院がどんなものであるかを知りました。私は監禁されている人々の声を自分の耳で聞きました。その声に大きなショックを受けたわけです。おそらくああいう声を聞けば誰でも同じだとおもいますが。「誰でも」と言いましたが、医師を除いて誰でもと言わなければなりません。私が「医師と精神科医を除いて」と言ったとしても、彼らを攻撃するためではありません。私が言いたいのは、医師としての職務が、狂人の言葉の中にある叫び、訴えをあまりにも濾過してしまうため、医師には言説の理解可能なあるいは理解できない不明瞭の部分しか聞こえてこないのです。医師はまさに職業上の確立した知識というフィルターがあることで、叫びの形態に近づくことができなくなってしまったのです。・・・・・・・・

精神病院を端緒にある種の問題が私の前に出現し、私にとりついて離れなかったのです。つまり権力の問題です。ある権力や支配のなんらかの形態のなんらかの服従形態を機能させることなしに知が機能しうる、あるいは事物の真理、現実、客観性を発見できるというのは本当ではありません。知ることと服従させること、知識を獲得することと命令することは、密接に結びついています。私はそのことを精神病院で、むき出しの状態で発見したのです。そこでは、精神科医の医学的知識、見かけは穏やかで思弁的な知識が、極めて細心に気をくばられた、巧みに序列化された権力と切り離すことは全くできず、この権力は精神病院の中で力をふるい、この権力がまさに精神病院をつくりあげているのです。・・・・・・・
彼ら(時代遅れの精神科医)が精神病院で君臨させている知の権力はどれほどの苦悩と反抗をもたらしていることでしょうか。・・・・・・


私が恐ろしいと思う言葉は「精神疾患者」です。つまり、訳の分からない人間、人から笑われたり、排除されたり、ののしられたりはしても、ぎりぎりのところでは人から受入れられて、社会の血漿の一員であった人間が、ひとたび厳密に身分が決定されると、病人になるわけです。そして、病人として、丁重にあつかわなければなりませんが、しかし病人として、権力の下に置かなければならない、その権力とは医師の規範的制度的権力です。それが気違いから病人への移行で、見た目は資格の回復のようですが、別のレベルでは、権力の奪取であるわけです。・・・・・・


精神病院、その高い塀、その恐ろしい空間、一般には監獄に隣接し、都市の中心部かはずれにあって乗り越えることができない空間、そこへ入ってしまったらもはやめったに外へは出られず、おそらく注意深い、細心の配慮がなされた、従っておそらく科学によって保証されたあの権力、しかし一般的な社会活動の規範、規則と比較すれば、驚くべき例外であるようなあの権力が支配する空間、出発点で私が興味をもったのはそういう空間でした。
 まず、それに興味をおぼえたわけです。最終的には、精神医学の権力は、それが狡猾であればあるほど効果的ではないでしょうか。つまり、精神医学の権力にそれが出現した場所以外のどこか別のところで出会う時、その権力が通常の介入領域、言い換えれば精神疾患ですが、そこではなく別の場所で機能する時ということです。例えば、学校における精神医学は、ある子供の試験の成績があまりよくないと、顔をつっこんできてこんなふうに口出しします。「これはいったいどうしたんだ。情動的葛藤は何なのだろう?家庭の問題はいったい何なのだろう?精神生理的・精神神経的発達の停止はどんな様子だろう?」と言って、その子を精神科医精神分析家のもとへ連れて行きます。少年が犯罪を犯すと、監獄で心理テスト、重要裁判所では精神鑑定が義務づけられている。

・・・そこでの問題は、「あらゆる権力は今日ある特別な権力、正常化の権力に結びついてはいないだろうか?」ということです。私が言いたいのは、正常化の権力、正常化のテクニックは、今日では、学校制度や刑事制度の中で、仕事場や工場、役所などいたるところで見いだす一種の一般的な道具ではないだろうかということです。個人を支配し、服従させることができる、科学的であるからこそ広く受け入れられた、一般的な道具のようなものではないか。言い換えれば、個人を服従させ、正常化するための一般的な道具としての精神医学。・・・・・」







(つづく)