大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録 (2)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html





イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



「・・・・アイヒマン裁判がドイツで最大の影響を及ぼしたことは疑いの余地がない。ドイツ国民の自らの過去に対する態度についてはすべてのドイツ問題の専門家がこの十五年以上ものあいだ頭を悩まして来たのだが、この態度がこれ以上はっきりと示されることはあり得なかったであろう。ドイツ人自身は結局無関心であり、殺人者どもが自由に闊歩していても特別気にもとめなかった。この連中は一人として自分の意志で殺人を犯しそうもなかったのだから。けれども世界の輿論がーというよりも、ドイツ人がドイツ以外の国々を一つの単数名詞に纏めて<外国>と呼んでいるものがー態度を硬化し、この殺人者どもが罰せられることを要求するとなれば、ドイツ人はこの要求に応ずるーすくなくとも在る程度まではーのにやぶさかでないのだった。
 アーデナウアー首相は国民の<当惑>を予想して、裁判は「すべての恐怖をよみがえらせ」、全世界に新しい反ドイツ感情の波を呼び起すのではないかという危惧を表明していたが、事実その予想は的中した。イスラエルが裁判の準備のために要した十カ月のあいだ、ドイツはこの裁判の予期し得る影響にそなえて、それまで見られなかったような熱意をもって国内のナツィ犯罪者を探し出し、告発するのにおおわらわだった。しかしいかなる時点においても、ドイツ当局も国内世論中の重要な部分もアイヒマンの引渡しを要求しなかった。いかなる主権国も自国の犯罪者を裁く権利はあくまで守ろうとするものだから、引渡しの要求が当然だったのに。・・・・・」



「・・・・この問題にはまたもっと微妙な、政治的にもっと重要な面があるのだ。犯罪者や殺人者をその隠れ家から狩り出すのはいいとして、そうした連中が公的な面でのさばっているーヒットラー体制のもとでの華々しい経歴を持った多くの人物が現在連邦や州の官庁で、一般的に官界で活躍しているーとなると話は別である。連邦政府や各州政府、警察、行政各省庁、外交界、大学、要するにドイツの公生活の全体が元のままの高い地位にいる旧ナツィどもによってむしばまれているという事実が、アイヒマン裁判がはじまるとともに判明したのであった。もしアーデナウアー政府がナツィとして疑われる過去を持つ公務員を用いることに神経質でありすぎたとすれば、国や州の営みなどというものが全然不可能だったことは事実である。・・・・
(すくなくとも一つの新聞だけは、つまり「フランクフルター・ルントシャウ」だけは、もうとっくに答えていなければならぬはずのわかりきった問--かくも多くの人人がたとえば連邦検事総長の前歴といったことは知っていたに違いないのに、なぜ彼らは沈黙を守っていたのかーを自分自身に発して、「自分も臑(すね)に傷持つ身だと感じているからだ」というさらに一層わかりきった答を出している。)すでに言ったようにこれは周知の事実であった。しかしこの錯綜した事態が驚くべき広汎に及んでいること、たとえば公的地位にあって罪を問われた人々のなかには大量殺害者までいるという事実は、終りの頃のいくつかの裁判のあいだにはじめてあきらかになったのである。・・・・・」




「ベン=グリオン(*イスラエル首相)の意図したような、法律的な厳密性は後まわしにして一般的争点を強調するアイヒマン裁判の論理からすれば、当然あらゆるドイツ官憲がーつまり、各省の公務員、国防軍及び参謀本部、司法界、産業経済界が最終的解決に荷担したことが暴露されねばならなかった。しかしハウスナー氏(検事長)に率いられた検察側は羽目をはずして、次々と証人を喚問し、凄惨で、しかも真実ではあるが、被告の行為とはほとんど何のかかわりもない事柄について長々と陳述をさせたにもかかわらず、この高度に爆発的な問題-党員の枠をはるかに超えてほとんどの国民全体に及ぶ共犯関係という問題に触れることは慎重に避けた。・・・・・」



「彼(*アイヒマン)は常に忠実な市民だったのだ。彼が最善をつくして遂行したヒットラーの命令は第三帝国においては、<法としての力>を持っていたからである。・・・・・
今日アイヒマンにむかって、別のやりかたもできたはずだと言う人々は、当時の事情がどうだったかを知らぬ人々、もしくは忘れてしまった人々なのだ。彼は、実はしろと命じられたことを甚だ忠実に果たしていたのに、今では「自分はいつも反対だった」と主張している人々の仲間に入りたくないのである。・・・・」






(つづく)