大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

ハンナ・アーレント語録 (3)

・・

映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から




「・・・アイヒマンはあきらかに、法的な意味は言うまでもなく、道徳的な意味でも狂人ではなかったという冷厳な事実がある・・・・
あきらかにアイヒマンは狂的なユダヤ人憎悪や狂信的反ユダヤ人主義の持主でも、何らかの思想教育の産物でもなかった。<個人としては>彼はユダヤ人に対して何ら含むところはなかった。反対に彼はユダヤ人を憎まない<個人的な理由>を充分持っていたのだ。・・・・・・
身内にユダヤ人がいることは、彼がユダヤ人を憎まない<個人的な理由>の一つだった。

そしてアイヒマンは事実、<ナツィ体制のなかでは例外ではなかった>という意味では正常だった。ところが第三帝国の状況のもとでは、<例外者>のみが<正常に>反応するものと期待し得たのである。この単純な真相が、判事たちにとっては解決することも避けて通ることもできないディレンマを生み出したのである。・・・」



「ヴァキューム石油会社が彼(*アイヒマン)にうんざりする前に彼のほうが出張販売員の仕事にうんざりしていたということである。時代の風は彼をつまらない無意味な平々凡々の存在から彼の理解したかぎりでの<歴史>のなかへ、つまり、<運動>のなかへ舞上がらせたのである。これは決して静止することがなく、その中では彼のような人間ー自分の属する社会的階級からも自分の家族からも、従ってまた自分の目から見てもすでに失敗者としか見られぬ人間ーでも、初めからもう一度やりなおして出世することができる運動だった。・・・・・」



「・・・1935年という年はナツィ政権がドイツ内外において全般的な、しかも不幸なことに表面だけのものではない承認をかちとった年であり、ヒットラーはいたるところで偉大な国民的政治家として仰ぎ見られていた。国内的にはドイツは当時過渡期にあった。大規模な再軍備計画により失業はなくなり、初期の労働者階級の抵抗は粉砕され、最初は主として、<反ファシスト>-共産主義者社会主義者、左翼知識人およびユダヤ人名士ーに向けられた政権側の敵意は、まだユダヤ人全般への迫害に全面的に集中してはいなかった。・・・・」



「1934年のレーム粛清の際ヒットラーはSAの、つまり初期のポグローム(*ユダヤ人に対し行なわれた集団的迫害行為)や残虐行為をほとんど一手に引受けていた鳶色シャツの突撃隊の力を粉砕してしまったし、またアイヒマンが軽蔑的に「突撃隊の手口」と呼んでいたものを普通控えている黒シャツのSS(*親衛隊)の勢力増大にはさいわいユダヤ人は気がついていなかったので、彼らは一般に暫定協約が可能だろうと考えた。それのみか彼らは<ユダヤ人問題の解決>に協力しようとさえ申し出た。要するに、アイヒマンユダヤ人問題について修業をはじめー4年後に彼はその道の<専門家>と認められることになるのだがーユダヤ人組織の役員とはじめて接触を持った頃には、シオニスト(*パレスチナユダヤ人の祖国を建設する運動をする人)も同化主義者(ユダヤ人内の)も、ともに大規模な<ユダヤ民族の再生>、<ドイツ・ユダヤ人社会の大きな建設運動>というような言葉を使っており、しかもユダヤ人の国外移住が好ましいかどうかについては、あたかもそれが彼ら自身の決定にかかっているかのように、イデオロギー的な言葉で仲間うちで論争していたのである。・・・・」



「1938年・・・アイヒマンの任務は<強制移住>と規定されていたが、この言葉はまことに適切だった。意志の有無を問わず、また市民権の有無を問わず、すべてのユダヤ人の移住を強制されたのだ。これは普通の言葉では追放と呼ばれるものである。・・・

彼の成功は目をみはらせるほどだった。八カ月のうちに四万五千人のユダヤ人がオーストリアを離れた。同じ期間にドイツを去った者は一万九千人以上ではなかったのだ。十八カ月足らずのうちにオーストリアから十五万近くのユダヤ人が<清掃>された。これは同国のユダヤ人人口の約60%に当たる。彼らはすべて<合法的>に出獄したのである。戦争開始後もなおおよそ六万人のユダヤ人が逃れることができた。どのようにしてアイヒマンはこれをやってのけたのか? この事業を成功させた基本的なアイディアは、〔現存する地方的乃至国際的ユダヤ人諸組織に資金を調達させるとともに実務に当る機構を設けさせて、国家の手でユダヤ人移住の体制をととのえることだったが〕勿論アイヒマンのものではない。それはどう見ても、彼をヴィーンに派遣したハイトリッヒの案だったようだ。・・・・

・・・・・アイヒマンユダヤ人役員を外国に送り、大きなユダヤ人組織から資金を集めさせた。そうしてこの資金はユダヤ自治体を通じて移住希望者に相当の利鞘を取って売られた。・・」






(つづく)