大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録 (4)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から




アイヒマンの性格にあるより特殊的な、しかもより決定的な欠陥は、或る事柄を他人の立場に立って見るということがほとんどまったくできないということだった。・・・・自分も部下もユダヤ人もみんな<同じ気持ちでやっている>と彼は考えていた。」



アイヒマンが、彼にとって重要な事柄や出来事に言及するたびに、驚くほど一貫して一言一句たがわず同じ極(*きま)り文句や自作の型にはまった文句をくりかえした・・・・彼は自分で一つの文章を作ることができると、いつまでもそれをくりかえして結局紋切型の極り文句にしてしまう。アルゼンチンやイェルサレムで回想録を記しているときでも、警察の取調官に、あるいはまた法廷でしゃべっているときでも、彼の述べることは常に同じであり、しかも常に同じ言葉で表現した。彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が考える能力ーつまり誰か他の人の立場に立って考える能力ーの不足と密接に結びついていることがますます明白になって来る。アイヒマンとは意志の疎通が不可能である。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、従って現実そのものに対する最も確実な防衛機構(すなわち想像力の完全な欠如という防衛機構)で身を纏っているからである。」




アイヒマンのケースは普通の犯罪者のケースとは違う。普通の犯罪者は、犯罪者仲間という狭い枠のなかにとじこまらないかぎり、普通の世間の現実に対して自分を守ることはできないのだ。アイヒマンのほうは、自分が嘘をついているのでも自己欺瞞をおこなっているのでもないという保証がほしければ、過去を思い出しさえすればよかった。その過去においては彼と彼の生きている世界とは完全に調和していたからである。そして八千万のドイツ人の社会は、まさに犯罪者たちと同じ遣方、同じ自己欺瞞、虚言、愚かさーそれらは今やアイヒマンのメンタリティにしみこんでしまっているものだーをもって、現実と事実に対して身を守っていたのであった。これらの虚言は年々歳々変ったし、しばしばたがいに矛盾していた。・・・・・しかし自己欺瞞の習慣はきわめて一般的なものになり、ほとんど生きのびるための前提条件にすらなってしまっていた。そのため、ナツィ体制の崩壊後十八年を経、そうした虚言の一々の内容が忘れ去られた今もなお、嘘をつくことがドイツ人の国民性の一部であると信じないわけには行かないことが間間あるほどなのである。戦争中は、ドイツ国民全体に対して最も効果的な嘘は「ドイツ民族の運命を賭けた闘い」というのであったが、ヒットラーもしくはゲッペルスの打ち出したこの嘘は三つの点で自己欺瞞を容易にした。第一に、この戦争は戦争ではないこと、第二に、この戦争を起したのはドイツではなく運命だったということ、第三に、これはドイツ人にとって生死の瀬戸際であり、自己が殲滅されたくなければ敵を殲滅しなければならぬということを、この嘘は暗示していたからである。・・・・」



「たしかに彼(*アイヒマン)はハウスナー氏(検事長)が彼を仕立てあげようとしたほどの大物ではなかった。所詮彼はヒットラーではなかったし、またはユダヤ人問題の<解決>に関するかぎり、ミューラーやハイトリッヒやヒムラーと同じほど重要な役割を演じたなどと言うことはできなかった。彼は誇大妄想狂ではなかった。しかしまた、弁護人がそうあってほしいと思うほど彼は小さくもなかったのである。・・・」



「・・・・シオニストの目にはヒットラーの政権掌握は、<同化主義の決定的敗北>として映った。従ってシオニストは、すくなくともしばらくのあいだ、ナツィとの犯罪的ではない協力を或る程度おこなうことができたのだった。シオニストたちはまた、ユダヤ人青少年および(彼らの希望するところでは)ユダヤ人資本家をパレスティナへ移住させながら<異化>を推進することは、<双方にとって公正な解決策>になると信じていた。当時ドイツの多くの官僚も同じ考えであり、しかもこの種の空言は最後までごく一般におこなわれていたのである。・・・・」



アイヒマンにとってはるかに重要だったのは、ドイツのシオニストからもパレスティナユダヤ機関からも命令を受けずに、彼ら自身のイニシアティヴでゲシュタポやSSと接触しようとするパレスティナからの密使だった。・・・・・・・・

これらのパレスティナから来たユダヤ人密使は、アイヒマンのそれと全然違うような物の言い方はしていなかったようだ。彼らはパレスティナユダヤ自治体入植区からヨーロッパに派遣されており、救助行動には関心はなかった。それらは彼らの任務ではなかったのである。彼らは「しかるべき人材」を選び出そうとしていたのであって、絶滅計画がまだ始まっていない段階での彼らの主要な敵は、ドイツやオーストリアという昔からの故郷でのユダヤ人の生活を脅かしている者どもではなく、ユダヤ人の新しい故郷への道を遮っている者であった。つまり、その敵はあきらかにイギリスであって、ドイツではなかったのである。事実彼らはドイツ国内のユダヤ人とは違って、委任統治国の保護下にあったからナツィ当局とはほとんど対等に交渉できる立場にあった。おそらく彼らは、相互の利益ということについて最初に語ったユダヤ人の仲間に数えられるだろう。そしてまた、彼らが強制収容所ユダヤ人のなかから「若いユダヤ人移住者を選び出す」ことを許された最初のユダヤ人だったということは間違いない。言うまでもなく彼らは、この選抜がどういう結果をもたらすかに気づいてはいなかった。結果は未来にしかなかったからである。それにしても彼らは、生き残るべきユダヤ人を選ばねばならぬのなら、ユダヤ人自身がその選択に当たるべきだと漠然と信じていた。この根本的に誤った判断の結果、選択から取残された大多数のユダヤ人は不可避的に腹背に敵を持つー 一方にナツィ当局、他方にユダヤ人組織当局ーという立場に追いこまれざるを得なかったのである。・・・・・」







(つづく)