大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録 (5)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から




「1939年9月1日の開戦までは、ナツィ政権はあからさまに全体主義的な犯罪的な性格を示しはしなかった。組織の面から見てこの方向への最も重要な措置の一つだったものは、党の一機関でありアイヒマンが1934年以来所属していたSS(*親衛隊)公安部と、秘密国家警察すなわちゲシュタポを含む正規の国家公安警察との統合を命ずる、ヒムラーの名による布告だった。この合体の結果生れたのが国家公安本部(RSHA)であり、最初それはハイトリッヒの指揮の下にあり、1942年の彼の死の後は、アイヒマンリンツ時代からの旧知であるエルンスト・カルテンブルンナー博士がその後を継いだ。ゲシュタポばかりでなく刑事警察や治安警察を含めてすべての警察官が、党員であると否とにかかわりなく、以前の地位に相応したSSの階級を与えられた。このことは、官僚機構のなかの最も重要な部分が一夜でナツィの諸階級のなかでも過激な部分と合体したことを意味する。私の知るかぎりでは、これに抗議した者も辞職した者も一人もいなかった。」




「・・・・途方もない権力をふるうこれらの機関のすべてがたがいに激しい競争をおこなっていたことも忘れてはならない。しかもこのことは、犠牲者にとっては何の救いにもならなかった。これらの機関の熱望することはいつも同じで、できるだけ多くのユダヤ人を殺すということだったからである。この競争心は、勿論各人のうちに自分の属する組織への大きな忠誠心を呼びおこし、しかも戦争の後まで生き残った。他に責任を転嫁して<自分の組織を無罪にしよう>というのが各人の願うところだった。・・」




「 <ユダヤ人に住むべき土地を与え>ようとするアイヒマンの第二の試みはマダガスカル計画だった。四百万人のユダヤ人をヨーロッパからアフリカ東南海岸のフランス領の島に強制的に移動させるというこの計画は、外務省が生みの親であり、その後RSHA(*国家公安本部)に移された。

・・・・・アイヒマンは彼の国外移住業務が完全に停止にたちいった1940年夏、四百万人のユダヤ人をマダガスカルへ強制移動をさせる具体案を練るよう命じられた。そして1年後にロシア侵入が始まるまではこの計画にほとんどかかりきりだったようである。・・・・四百万、(しかしこの計算にはあきらかに三百万のポーランドユダヤ人は含まれていない。このポーランドユダヤ人たちは周知のように、戦争勃発直後から殺戮されていたのである。)アイヒマンやその他幾人かのあまり有名でない連中を除いては、この一件を真に受けていた人間がいたなどということはあまり考えられない。というのは、この計画はーこの土地がフランスの領土だったということは別としてもー戦争の最中に、しかもイギリス艦隊が大西洋を支配していた時期にあって、四百万もの人間を運ぶ船舶を必要としたからである。マダガスカル案は最初から、西ヨーロッパの全ユダヤ人の肉体的絶滅の準備を進めるための隠れ蓑としての役割を担わされていたのだ。(ポーランドユダヤ人の絶滅にはそんな隠れ蓑など不要だった!)そして、反ユダヤ人主義を注入された人々を対象とする場合、このマダガスカル計画の大きな利点は次のことにあった。つまり、この連中はどれほど努力しても常にヒットラーからは一歩立遅れていたが、この計画はすべての関係者に、ヨーロッパからのユダヤ人の完全な強制退去以外はお話にならないー特別法も<異化>もゲットーも不充分だーという、すべての前提となる観念をなじませる効能があったのだ。マダガスカル計画が一年後に<時代遅れ>になったと宣告されたとき、誰もが心理的に、というよりも論理的に次の段階への準備ができていた。<強制移動>させられる土地がない以上、残る唯一の解決は絶滅であった。
 未来の世代のために真実を語ると自負するアイヒマンが、このような陰険な計画の存在に全然気がつかなかったのだ。・・・」






(つづく)