大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録 (10)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から




「・・・この暴力による死の雰囲気のなかで特に効果的だったのは、後期にあっては最終的解決は銃殺、すなわち暴力によってではなく、ガス室で遂行されたという事実だった。ガス室は最初から最後まで、開戦当初(*1939年9月)にヒットラーが命令し、ロシア進攻までドイツ内の精神病者に適用されていた<安楽死計画>と密接に結びついていた。1941年秋に開始された絶滅計画は謂わば二つのまったく異なった軌道に沿って進められた。その一つはガス室に導き、もう一つはアインザッツグルッペン(*特務部隊)に向かったが、このアインザッツグルッペンの、特にロシアで軍の背後においておこなわれる行動は、パルティザン戦はという口実によって正当化されたし、またその犠牲者は決してユダヤ人だけではなかった。本物のパルティザンのほかに彼らはロシアの幹部やジプシーや反社会的人間や狂人、そしてユダヤ人を処理したのである。ユダヤ人は<潜在的な敵>として犠牲者に含まれていたのだが、不幸にしてロシアのユダヤ人がこのことに気がついたのは数か月も後のことであり、そのときはもう逃げ出すには手遅れだった。年配の人々はドイツ軍が解放者として歓迎された第一次世界大戦のことをおぼえていた。ユダヤ人がドイツで、あるいはまたヴァルシャワ(*ワルシャワ 原訳)でどんな目に遭っているか」などということは老いも若きも聞いていなかった。・・・・」



「ロシアとポーランドユダヤ人だけではなくすべてユダヤ人を絶滅せよというフューラー(*ヒットラー総統)の命令は、下されたのは後になってからだが、ずっと前に遡ってあとづけることができる。それが生み出されたのはRSHA(*国家公安本部)でもハイトリッヒもしくはヒムラーの管轄下のどの部課でもなく、総統官邸のヒットラー自身の執務室においてであった。それは戦争とは何の関係もなかったし、軍事的必要に藉口することもなかった。疑う余地のない文書資料をもって東部のガス室における絶滅の計画がヒットラー安楽死計画から成長して来たことを証明したのは、ジェラルド・ライトリンガーの『最終的解決』の大きな功績の一つである。そしてアイヒマン裁判が<歴史の真相>にあれほど関心を持ちながらこの事実関係に注意を払わなかったのは遺憾なことだ。・・・・・」



「最初のガス室は1939年に、「不治の病人には慈悲による死が与えられるべきである」というこの年に出されたヒットラーの布令を実施するために作られた。ガス殺は<医学的問題>とみなされなければならないとする驚くべき確信をセルヴァティウス博士(*アイヒマンの弁護士)に与えたのは、多分このガス殺の<医学的>な由来であったろう。この着想そのものは相当古いものだった。すでに1935年にヒットラーはドイツ医師総監ゲアハルト・ヴァーグナーに、「戦争になったらこの安楽死の問題を引受けて実行するように、戦時のほうがやりやすいから」と言っていた。問題の布令は精神病者に対してただちに実施され、1939年11月から1941年8月までのあいだに約5万人のドイツ人が一酸化炭素ガスで殺された。その施設のなかの死の部屋は後のアウシュヴィッツにおけるのとまったく同じようにーつまりシャワー室や浴室に偽装されていたのである。この計画は失敗だった。周囲に住むドイツ人に対してこのガス殺を秘密にしておくことは不可能だった。四方八方から抗議が起ったが、この人々はまだ医学の本質と医師の任務についての<客観的な>理解に達していなかったのだろうと察せられる。東部におけるガス殺ーいや、ナツィの言葉で言えば<人々を慈悲によって死なせる>という<人道的な遣方>-は、ドイツ内でのガス殺が中止されたのとほとんど時を同じくして開始された。それまでドイツの安楽死計画に携わっていた連中が、民族絶滅のための新しい設備を築くために今度は東部へ送られた。・・・・・」




「人目を偽り偽装するために注意深く考え出されたさまざまの<用語規定>のうち、<殺害>という言葉のかわりに<慈悲によって死なせる>という言葉が用いられているこのヒットラーの最初の戦時命令以上に、決定的な効果を殺し屋どものメンタリティに及ぼしたものは一つもない。アイヒマンは警察の取調係官から、<不必要な過酷さを避けよ>というあの訓令は、これらの人々の運命がどっちみち確実な死だったという事実を考えれば少々皮肉なものでなかったかと訊かれたとき、この質問の意味を理解することができなかった。許すべからざる罪は人々を殺すことではなく<不必要な苦しみ>を与えることだという考えは、今もってそれほどまでもしっかりと彼の頭に根をおろしていたのである。・・・・・・」







(つづく)