大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録 (11)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から




「・・・・アウシュヴィッツやヘウムノ、マイダネクやベルゼク、トレブリンカやソビボールのガス室は、<慈悲による死>の専門家たちが名づけたとおりまさに<公共医療のための慈善施設>の観を呈したに違いない。それのみか1942年1月以後は、「氷雪のなかで負傷者に救いを与える」ための安楽死班が東部で活動していた。この負傷兵士殺害もまた<極秘>ではあったが、多くの人々はこれを知っていた。勿論最終的解決の執行者たちがこれを知っていたことは確実である。
 精神病者のガス殺はドイツでは住民からの、また少数の勇気ある教会の高位者からの抗議によって中断しなければならなかったことはしばしば指摘されて来たが、それに反して、この計画がユダヤ人のガス殺に切換えられたときには、いくつかの収容所は当時のドイツ領内にありドイツ人住民に囲まれていたにもかかわらず、そのような抗議は聞かれなかった。しかしまた、抗議が起ったのは戦争が始まった頃でしかなかったのだ。
 <安楽死教育>なるものの効果を別としても、<ガスによる苦痛のない死>に対する人々の態度が戦争が進むにつれて変ったことは大いにあり得ることだ。この種のことは証明が困難である。計画全体が秘密とされていたから、頼るべき文書はない。また戦争犯罪人たちは一人としてこれについては語らなかったし、この問題についての国際的な文献の引用をふんだんにおこなったニュールンベルクの医師裁判の被告たちすらも語っていないのである。
 おそらく彼らは自分たちが殺人をおこなっていた時期の輿論の動向などは忘れてしまっていたろうし、また輿論を気にかけたりしなかっただろう。彼らは不当にも、自分たちの<客観的かつ科学的>な態度は一般民衆の抱いている意見よりもはるかに進歩したものだと感じていたからである。
 しかしまた、自分の受けた衝撃は隣人たちには理解されないということを完全に意識していた人々もいて、この信頼に値する人々の戦争日記のなかに見られるいくつかのきわめて貴重な記録は一国民全体の道徳的崩壊の後にまで生命を失っていないのである。・・・・」






(つづく)