大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録 (15)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から




ユダヤ民族は全体としては組織されていなかったこと、領土も政府も軍隊も持たなかったこと、それを最も必要としたときに連合国間で彼らを代表する亡命政府を持たなかったこと、隠匿武器も軍事訓練を受けた青年層も持たなかったことは事実である。しかしそれだけが真実のすべてではない。各国内にも国際的にも、ユダヤ自治体組織やユダヤ人政党や福祉団体は存在したのだ。ユダヤ人が暮しているところはどこにでも、一般に認められたユダヤ人指導者が存在したのだ。しかしこれらの指導者はほとんど例外なく、何らかの形で、何らかの理由で。ナツィと協力したのだった。もしユダヤ民族が本当に未組織で指導者を持たなかったならば、混乱と非常な悲惨は存在しただろうが、西から東へとユダヤ人を(間引く)のにあのような複雑な官僚機構が必要だったことを考えれば、ああまで恐ろしい結果は東部地域だけにとどまっただろうし、犠牲者総数が四百五十万から六百万に上るようなことはまずなかったろう。・・・・・

オランダでもユダヤ人評議会はすべての官庁と同じくたちまちのうちに<ナツィの道具>となり、いつもの遣方で、つまりユダヤ人評議会の協力で、十万三千人のユダヤ人が殺戮収容所へ、約五千がテレージェンシュタット(*特別待遇の収容所)へ送られた。これと対照的に、ナツィーそれはユダヤ人評議会をも意味するがーの手を逃れて地下に潜ったおよそ二万から二万五千人のユダヤ人のうち、一万人が生き伸びた。ここでも半数である。テレージェンシュタットへ送られたユダヤ人の大部分はオランダに帰った。
 私はイェルサレム裁判によってはその真の重大性を世界の前にあきらかにされなかったこの問題を縷説したが、その理由は、この問題こそナツィが尊敬すべきヨーロッパ社会にーそれも単にドイツだけではなくほとんどすべての国の、しかも単に迫害者の側だけでなく被害者のあいだにもーひきおこした道徳的崩壊についての、最も衝撃的な認識を与えるからだ。」



アイヒマンはナツィ運動内の他の分子とは反対にいつも<上流社会>に威圧されており、彼がドイツ語を話すユダヤ人役員にしばしば示した鄭重さには、自分より社会的に上位にある人を相手にしていることを彼が認めていたことが大いにあずかっていた。彼は決して、・・・・道徳的戒律が存在せず人は誰でも自分の欲望を発散させることのできる境域へ逃避することを望んでいる傭兵ではなかった。彼が最後まで熱心に信じていたのは<成功>ということであり、それが彼の知るかぎりでの<上流社会>というものの第一の価値尺度であった。・・・・・
彼にとってこのヒットラーの経歴(*庶民から指導者へのし上がった)のなかに、彼の「最高の理想、民族共同体という理想」が象徴されていたのかもしれない。
どこの<上流社会>も彼と同じ反応を熱烈に真剣に示しているのを見ては、事実彼の良心はもはや悩む必要がなかった。判決で言われているように、「良心の声に対して耳を塞ぐ」必要は彼にはなかった。彼に良心がなかったからではなく、彼の良心は<尊敬すべき声>で、彼の周囲の尊敬すべき上流社会の声で語っていたからである。・・・・」



「・・・彼の殺人への熱意は、時折彼を引止めようとした人々の声の曖昧さとまったく無関係なものではなかったのである。ここでは簡単にドイツにおける<国内亡命>と呼ばれるものー多くの場合第三帝国内で地位を、しかも高い地位を保持していながら、戦後になると自分自身にむかって、また広く世界にむかって、自分は体制に対していつも<内心では反対>していたのだと言っている人々のことに触れておけばいい。問題は彼らが真実を述べているか否かではない。重要なことはむしろ、ヒットラー体制の秘密に毒された雰囲気のなかでも、このような<内心の反対>ほど守りやすい秘密はなかったということである。このことはナツィの恐怖政治という条件のもとではほとんど自明なことだった。主観的には勿論誠実だった或るかなり名の知れた<国内亡命者>が、秘密を守るために彼らには<外部に対しては>普通のナツィよりもナツィらしく振舞うことが必要だったとかつて私に言った。(ついでに言えば、このことはわれわれに知られているわずかばかりの絶滅計画への抗議が軍の指揮官たちではなく古参党員から出された理由を説明するものかもしれない。)だから、第三帝国で生き、しかもナツィらしく振舞わない唯一の道は全然おもてにあらわれないことだった。・・・・実際「公的生活への有意味な参加を取消すこと」こそ、個人の罪を測定する唯一の基準だったのだ。・・・・・
<国内亡命者>は「盲目的に信じる大衆のなかで、自分の国民のあいだで、あたかものけ者であるかのように」生きていたものだけだった。なぜなら、いかなる組織もないところでは<反対>は事実<まったく無意味>だったからだ。十二年間にわたってこの<外の冷たさ>のなかで生きて来たドイツ人がいたことは事実である。しかしその数は、抵抗運動の戦士たちのあいだですらも取るに足らぬものでしかなかった。近年この<国内亡命>という極り文句(この言葉それ自体が個人の内部の世界への逃避を、もしくは亡命者であるかのように振舞う行動方式を意味するから、どうしても曖昧な感じがつきまとう)は冗談みたいなものになりさがってしまった。・・・・・」






(つづく)