大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録 (18)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から




「彼(アイヒマン)のすることはすべて、彼自身の判断し得るかぎりでは、法を守る市民としておこなっていることだった。彼自身警察でも法廷でもくりかえし言っているように、彼は自分の義務をおこなった。命令に従っただけではなく、法律にも従ったのだ。・・・・・・

彼は「最終的解決」の実施を命じられたときから自分はカントの原則(*盲目的服従をしりぞける人間の判断力)に従って生きることをやめた。そのことは自覚していたが、自分はもはや「みずからの行為の主」ではなく、「何かを変える」ことは自分にはできないと考えて自分を慰めていたと説明を試みた。彼が法廷で言わなかったことは、この「国家によって犯罪が合法化されていた時代」において、・・・・これを次のように読み曲げていたということである。すなわち「汝の行動の原則が立法者のもしくは国法の原則と同一であるかのごとく行動せよ、・・第三帝国の定言的命令にあるように、総統が汝の行動を知ったとすれば是認するように行動せよ」と。
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法を守るということは単に法に従うことだけではなく、自分自身が自分の従う法の立法者であるかのように行動することを意味するという、事実ドイツでは一般にみられる観念に帰せられ得るのである。すくなくとも義務の命ずる以上のことをしなければならないという信条はここから来る。」



「 いかにもアイヒマンの行動を決定したものは単にヒムラーが今や<犯罪的な>命令を下しているという彼の信念だけではなかった。しかし疑いもなくそこに働いていた個人的要因は、彼の純粋な「ヒットラーへの限りない熱狂的な讃歌」-「兵長からドイツ帝国首相に」までなりおおせた人間へのそういった讃歌であった。ヒットラーに対するこの讃歌と、ドイツがすでに廃墟と化している時にあたってなお第三帝国の法を守る市民でありつづけようとする決意と、そのどちらが彼の心のなかで強かったかをはっきりさせる必要はあるまい。この二つの感情はもう一度、戦争の最後の数日間に周囲の人々が皆ロシア軍もしくはアメリカ軍の到来以前に万一にそなえて贋の身分証明書を手に入れようとするほどの才覚を失っていないのを見たときよみがえって、彼は激しい怒りをおぼえた。それから数週間後アイヒマン自身も偽名を使って旅行をはじめるが、このときはもうヒットラーは死んでおり、<国の法律>はもはや存在しておらず、そして彼は(彼自身指摘したように)もはや宣誓に縛られていなかったのだ。なぜならSS隊員の宣誓は軍人の宣誓と異なって、ドイツに対してでなくヒットラーに対してのみ義務を負わせるものだったのだから。
 アイヒマンの良心の問題は疑いもなく複雑なものだが、決して彼一人だけのものではなかった。・・・・・」




「・・・文明国の法律が、人間の自然の欲望や傾向が時として殺人にむかうことがあるにもかかわらず良心の声はすべての人間に「汝殺すべからず」と語りかけるものと前提しているのとまったく同じく、ヒットラーの国の法律は良心の声がすべての人間に「汝殺すべし」と語りかけることを要求した。殺戮の組織者たちは殺人が大多数の正常な欲望や傾向に反するということを充分知っているにもかかわらず、である。第三帝国における<悪>は、それによって人間が悪を識別する特性ー誘惑という特性を失っていた。ドイツ人やナツィの多くの者は、おそらくその圧倒的大多数は、殺したくない、盗みたくない、自分らの隣人を死におもむかせたくない(なぜならユダヤ人が死にむかって運ばれて行くのだということを彼らは勿論知っていたからだ、たとい彼らの多くはその惨たらしい細部を知らなかったとしても)、そしてそこから自分の利益を得ることによってこれらすべての犯罪の共犯者になりたくないという誘惑を感じに相違ない。しかし、彼らはいかにして誘惑に抵抗するかということを学んでいたのである。」







(つづく)