大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録 (20)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から




一部整理:Kemukemu 「  」内はハンナ・アーレント

ライヒドイツ帝国)からの移送>

ライヒドイツ帝国
当時は単にドイツだけではなく、オーストリアチェコ保護領モラヴィア:現在のチェコ東部、ボヘミア:現在のチェコの西中部)及び併合されたポーランド西部地方をも含む



・1939年9月ポーランド進攻後、ヴァルテガウ(ポーランドの西部)の地方のユダヤ人はポーランド人といっしょに最初の大規模な東方移民計画によって東へ移送。一方、ドイツ系ポーランド人(国外ドイツ人)は、西に向かって「帝国」(ライヒ)へ帰らされる。

・1940年2月、ドイツのシュテッティンの1300人のユダヤ人が、ポーランドのルブリン地域に移送。(ドイツのユダヤ人の最初の移送)
・1940年秋、バーデンとザールプㇷァルツのすべてのユダヤ人(およそ7500人)がフランスの非占領地域へ移送。フランスのヴィシー政府は、ピレネー山麓のギュールの強制収容所に入れた。
→その後、最終的解決がフランスでも実施されると、ギュール収容所の収容者はすべてアウシュヴィッツへ送られた。


1941年9月、ユダヤ人への黄色いバッジの採用

国籍法を改訂して、ユダヤ人が帝国の外で生活している場合、ドイツ国籍者とみなされないとした。

1941年11月、国籍を失ったドイツ系ユダヤ人の全財産は帝国によって没収されるという政令が出される。


´↓によって、法相は「ポーランド人、ロシア人、ユダヤ人およびジプシー」に対する管轄権をSS(ナチ親衛隊)に譲るとして、「司法省はこれらの民族の絶滅には大きな寄与をなし得ない」とした。




「ドイツでは<特例>ー例えばシュテファン・ゲオルゲのサークルに属していた詩人アルフレート・モンバート、彼はスイスに行くことを許された-についてはいくつかの干渉がおこなわれたが、民衆一般のほうはあきらかにこれ以上とはなく無関心だった。ハイトリッヒ(*国家保安本部長官)が何らかの縁故を持つユダヤ人を無名の大衆から分離することがいかに肝要であるかを悟り、ヒットラーの同意を得てテレージェンシュタットおよびベルゲン=ベルゼンの収容所を設けることにきめたのはおそらくこのときだった。・・」


「テレージェンシュタットはライヒ(帝国)の領域内にあるので、そこに送られたユダヤ人は自動的には無国籍にならなかった・・・。この<特恵的カテゴリー>の場合には、1933年の古い法律が<国民と国家に敵対的な>活動のために用いられた財産を没収することを政府に許していた。この種の没収は強制収容所の政治囚について通常おこなわれていた。ユダヤ人はこのカテゴリーに属さなかったがードイツとオーストリアにあるすべての強制収容所は1942年の秋にはユーデンライン(*ユダヤ人が存在しない地)になっていたー、すべての移送されたユダヤ人は<国民と国家に敵対的>だったことを証明するためには、1942年3月に発布された法律一つで事足りた。・・・彼らの仲間内では<テレージェンシュタットのゲットー>だの<老人ゲットー>だのと言っていたにもかかわらず、テレージェンシュタットは正式には強制収容所とされており、このことを知らなかったのはその囚人だけだったのだーこの<居住地>は<特殊クラス>のみにあてられていたから、人々は彼らの感情を傷つけようとしなかったのである。そしてここに送られたユダヤ人が疑いを抱いたりしないように、ベルリンの全国ユダヤ人連盟はテレージェンシュタットの<居住権>についての協約を被移送者一人一人と結ぶことを命じられた。移送予定者は一切の財産を全国連盟に譲渡し、それに応じて全国連盟は彼が死ぬまで住居、衣食、医療を保証する。いよいよ連盟の最後に残った職員もみずからテレージェンシュタットへ送られてしまうと、ライヒはそのとき連盟の金庫にあった莫大な金額をあっさりと没収してしまった。」



「西から東への移送はすべて、アイヒマンとRSHA(国家保安本部)の検治臓檻寛櫃糧爐良下の手で組織され調整された。・・・・しかしユダヤ人を列車にのせるためには、アイヒマンは通常警察の援助を必要とした。ドイツでは治安警察が列車を警戒し護送し、東方では公安警察が目的地に待ちかまえていて、囚人を虐殺施設の責任者に引渡す。・・・このことは、治安警察も公安警察も最終的解決の実行に活動的に参与していたことはこのときはすでに充分立証されていたにもかかわらず、その両者とも(イェルサレム裁判で)問題にされない・・・・・
しかしたとい<犯罪的>と認められた四つの組織ーナツィ党指導部、ゲシュタポ(*秘密国家警察)、SD(*親衛隊情報部)、SS(*親衛隊)-にすべての警察部隊をつけくわえたとしても、ニュールンベルク裁判で定められたあの区分法は依然として第三帝国の現実には不充分であり適用不可能だったことだろう。すくなくとも戦争期間中は犯罪的な行動や取引に関係しなかった組織もしくは公的な団体はただの一つもなかったというのが真相だからである。」



「1943年6月30日に、ライヒドイツ帝国)-ドイツ、オーストリア保護領ーはユーデンライン(*ユダヤ人が存在しない地)を宣せられた。幾人のユダヤ人が実際にこの地域から移送されたかというようなはっきりとした数字はわかっていないが、ドイツ側の統計によれば1942年1月現在移送された、もしくは移送の対象となるユダヤ人26万5千のうち逃れたものはごくわずかでしかなかった。おそらく数百、多く見ても数千のものが身をかくして戦後まで生き伸びることに成功したにすぎない。
このユダヤ人の隣人たちの良心をなだめることがどんなに容易だったかは、1942年の秋、党書記局から出された回章のなかの、ユダヤ人移送についての公式説明が最もよく示している。『或る点では甚だ困難だったこれらの問題は、当然ながら<容赦のない厳しさ>によってのみわが国民の恒久的安全に資するように解決され得たのである』」







(つづく)