大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(21)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



<西ヨーロッパからの移送>

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「 1941年6月、アイヒマンはフランス、ベルギー、オランダに駐在する彼の顧問たちを召喚して、これらの国からの移送の計画を提示させようとした。
ヒムラーは「ヨーロッパを西から東へ掃討する」についてまずフランスからはじめるように命じたが、それは一つにはこの「典型的な国家」に本来そなわっている重要性のためであり、また一つにはヴィシー政府(*第二次世界大戦中におけるフランスの政権。1940年 - 1944年・フランス中部の町ヴィシーに首都を置いたことから呼ばれた)はユダヤ人問題についてまさに驚くべき<理解>を示し、みずから進んで多くのユダヤ人弾圧法を制定していたからだった。それどころかヴィシー政府は特別のユダヤ人問題対策部を設け、・・・・
しかし、フランスの反ユダヤ人主義は住民のあらゆる層にわたる概してショーヴィニスティックな強い外国人嫌いと密接に結びついていたので、この反ユダヤ人主義への譲歩として作業はまず外国系ユダヤ人を対象にして始められることになった。
そして1942年にはフランスにいる外国系ユダヤ人の半数は無国籍ーロシア、ドイツ、オーストリアポーランドルーマニア、ハンガリア(すなわちドイツの支配下にある地域、もしくは開戦前にすでにユダヤ人弾圧法を成立させていた地域)からの避難民や亡命者ーだったから、まず手始めにおよそ十万の無国籍ユダヤ人を移送することに決定された。」



「1940年の春ベルギーとオランダからの避難民が流れこむ前の1939年にはおおよそ二十七万のユダヤ人がおり、そのうちすくなくとも十七万は外国人もしくは外国生れだった。
占領地域とヴィシー政府治下の地域からそれぞれ五万人が大急ぎで移動させられねばならなかった。これは大変な事業であり、それにはヴィシー政府の同意だけでなくフランス警察の積極的な援助が必要だった。ドイツで治安警察がやっているのと同じ仕事をフランス警察にやらせるのである。
ペタン元帥の(*ヴィシー政権の主席、軍人)の政府の首相だったピエール・ラヴァルが指摘したように「これらの外国系ユダヤ人はフランスでは常に厄介な存在であった」から、「フランス政府は彼らに対するドイツの態度の変化によって彼らを一掃する機会がフランスに与えられたことを喜んでいた」。ラヴァルとペタンがこれらのユダヤ人は東方に植民されるものと考えていたことはつけくわえておかねばならない。ただし彼らは<植民>が何を意味するかをまだ知らなかったのである。・・・・」




「1942年の夏と秋に二万七千の無国籍ユダヤ人ーパリから一万七千人、ヴィシーのフランスから九千人ーがアウシュヴィッツへ移送された。
こうしてフランス全土でおよそ七万の無国籍ユダヤ人が残ったが、このときドイツ側は最初の失策をした。今ではフランス人はユダヤ人の輸送に慣れっこになっているから文句は言わないだろうと安心して、フランス系ユダヤ人をもそれに含めるー単に事務的な仕事の便宜をはかるためにーことの許可を求めたのである。
これによって事態はまったく一転した。フランス人はかたくなに自分らのユダヤ人をドイツ人に渡すことを拒みつづけた。
そしてヒムラーはこの事態を知らされるやー知らせたのはアイヒマンでも彼の部下でもなく、たまたま高級SS警察長官だったーすぐさま譲歩して、フランス籍ユダヤ人には手をつけないことを約束した。しかしこれではもう手遅れだった。<植民>をめぐる噂がフランスまでとどきはじめた。
そしてフランスでは反ユダヤ人主義者のみか非反ユダヤ人主義者も外国籍ユダヤ人がどこかほかの国に住みつくのを歓迎したろうが、また反ユダヤ人主義者すらも大量殺人の共犯者になることは望まなかった。
こうしてフランス人は、ほんのしばらく前までは真剣に考慮していた措置をとること、すなわち1927年以後(あるいは1933年以後)ユダヤ人に与えられていた帰化権を取消すことを拒んだ。そうすれば移送の対象となるユダヤ人はさらに五万人も増えたはずなのである。
その上彼らは無国籍ユダヤ人や外国籍ユダヤ人の移送についても際限もなく故障を言い立てはじめたので、フランスからのユダヤ人の強制移動に関するあの野心的な計画全体が実際<落され>ねばならなくなった。数万の無国籍者が姿をくらまし、また数千人はイタリア占領地域のコート・ダジュールへ逃れたが、そこでは出生や国籍がどうあれすべてのユダヤ人は安心していられたのである。
1945年の夏、ドイツはユーデンライン(*ユダヤ人が存在しない地)と宣言され、そして連合軍がちょうどシチリアに上陸した頃には、どう見ても全体の20パーセント以下の、せいぜい五万二千のユダヤ人が移送されていたにすぎず、そして彼らのうちフランス国籍を持っていたのは六千人以上ではなかった。ドイツにあるフランス軍捕虜収容所にいたユダヤ人捕虜すらも<特別処置>のために選び出されることはなかった。
連合軍がフランスに上陸するよりも二カ月前の1944年4月にはまだ二十五万人のユダヤ人がフランスにおり、そして彼らは皆戦後まで生き残った。
ナツィは人力も、断固たる反対に出逢ったときに<厳しく>ありつづける意志力も持っていないことがこれで判明した。・・ゲシュタポやSSといえども冷酷さと優柔さとを併せ持っていたというのが真相なのである。」






(つづく)