大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(22)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



<西ヨーロッパからの移送>


▲戰襯ー


「ベルギーの状態はいくつかの点で特殊だった。
この国はドイツ軍当局のみによって支配されており、ベルギー政府から法廷に提出された報告の指摘するように、『警察は他のドイツ人行政機関に対してほかの国で持っていたような影響力を持っていなかった』。・・・・
ベルギー人の対独協力者といえばフランドルにしか大したものはいなかった。
ドクレルを首領とするフランス語系ワロン人(*ベルギーのワロン地域で多数派を構成し、フランス語の一方言のワロン語母語とする)のあいだのファッショ的運動はあまり影響力を持たなかった。
ベルギーの警察はドイツ人に協力しなかったし、ベルギーの鉄道員を信用することはできなかったので、移送用の列車に警備員をつけないわけにいかなかった。彼らは扉に鍵をかけないように立ちまわったり待伏せをかけさせたりしてユダヤ人が逃げられるようにしたのである。
一番変っていたのはユダヤ人住民の構成だった。開戦前(1939年9月)には九万人のユダヤ人がおり、そのうち三万人はドイツ系ユダヤ人の避難民であり、五万人は他のヨーロッパ諸国から来た。
1940年の末には四万人近くのユダヤ人がこの国から逃れており、残った五万人のなかには一番多く見ても五千人のこの国に生れて市民権を持つユダヤ人しかいなかった。
のみならず、逃げた連中のなかには多少とも重要なユダヤ人指導者がすべてがはいっており、しかもこの指導者たちの大部分が何らかの形で外国系だった。そのためユダヤ人評議会はこの国のユダヤ人のあいだで何らの権威をも持っていなかった。
あらゆる方面でのこうした<無理解>を見れば、ごくわずかのベルギー系ユダヤ人しか移送されなかったことは驚くには当らない。
しかし帰化したばかりのものや無国籍ユダヤ人ーチェコポーランド、ロシア、あるいはドイツ語系で、多くのものは最近やって来たばかりだったーは見破られやすかったし、完全に工業化された狭い国土のなかで匿(かくま)うのはきわめて困難だった。
1942年の末には一万五千人がすでにアウシュヴィッツへ送られており、連合軍がベルギーを解放した1944年秋には総計二万五千人が殺されていた。
アイヒマンは例の<顧問>をベルギーに置いていたが、しかしその顧問はこの作業ではあまり活躍しなかったらしい。作業は結局、外務省からのやかましい催促のもとで軍政部(*ナチ)によっておこなわれたのである。」







(つづく)