大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(27)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



<バルカンからの移送>



ブルガリア

ブルガリアには他のすべてのバルカン諸国よりもナツィ・ドイツに感謝すべき理由があった。ルーマニアユーゴスラヴィアギリシャを犠牲にしてかなりの領土拡張を許されたからである。
それなのにブルガリアは一向に感謝せず、政府にも国民にも(*ユダヤ人問題解決についての)<容赦のない厳しさ>の政策を実施するだけの物分りのよさはなかった。・・・・
しかも議会は非常に尊敬され、国王ともうまく強調していた。それ故ブルガリア人はロシアに宣戦することは勇敢に拒みつづけ、形ばかりの<義勇兵>団を東部組織に送ることすら決してしなかったのである。
しかし何にもまして驚くべきことは、反ユダヤ人主義がすべての民族集団のあいだに蔓延し、ヒットラーの登場のずっと以前から国の公の政策になっていたこの混合住民地帯のなかにあって、ブルガリア人はいかなる<ユダヤ人問題についての理解>をも持たなかったことだった。
いかにもブルガリア軍は、軍政下にあり、しかもその住民は反ユダヤ的だった新しく併合した領土から、すべてのユダヤ人ーその数はおよそ一万五千ーを移送させることに同意しはした。しかし<東部への移住>ということが実は何を意味しているかを彼らが知っていたかどうかはわからない。
しばらく前、1941年1月に、政府は多少のユダヤ人弾圧法をも施行していたのだが、ナツィの目からすればこれはまったく馬鹿々しいものでしかなかった。およそ六千人ばかりの五体健全な男性が労働のために動員されたが、いつ改宗したかに関係なく洗礼を受けたユダヤ人はすべて免除され、その結果改宗の大流行がはじまった。さらに五千人のユダヤ人ー総数五万のうちー特典を与えられた。そしてユダヤ人の医師および実業家の人数は制限されたが、その定数はむしろ高いほうだった。国全体ではなく都市に在住するユダヤ人のパーセンティジにもとづいて定めれらたからである。
これらの措置が実施されると、ブルガリア政府当局者は誰もが満足できるような形ですべてはかたづいたと公に言明した。・・」



「ドイツ側の強い圧力のもとにブルガリア政府は遂に全ユダヤ人をソフィア(*ブルガリアの首都)から田園地域へ追い出すことを決めた。しかしこの措置はユダヤ人を集結するのではなく分散させるものだったから、あきらかにドイツ側の要求するものではなかった。
 この追放措置は事実上、全体の状況における重要な転機をなした。なぜならソフィアの住民はユダヤ人が駅へ行くのを引止め、しかもそれにつづいて王宮の前でデモをおこなったからである。ドイツ側はユダヤ人が保護されているのは誰よりもボリス王のためであると誤解していた。それ故ドイツの諜報機関員が国王を殺害したことはかなり確実である。(*1943年8月、国王がヒットラー訪問直後に謎の急死)しかし国王の死も1943年の初めにダネッカー(*アイヒマンの部下)が着任したことも全然事態を変えなかった。議会も民衆もはっきりとユダヤ人の味方だったからである。
ダネッカーは着任早々六千人の<指導的>ユダヤ人をトレブリンカ(絶滅収容所)に移送することについてブルガリアユダヤ人問題担当官と協定を結ぶことに成功したが、これらのユダヤ人は一人としてブルガリアを去らなかった。この協定はそれ自体注目に値する。これはナツィがユダヤ人指導者層を自分の目的のために働かせる望みを持っていなかったことを示しているからである。
ソフィアの大ラビはこの土地のギリシャ正教大主教ステファンにかくまわれていてつかまえられなかった。この大主教は「神はユダヤ人の運命を定められた。そして人間には彼らを苦しめ迫害する権利はない」と公然と言明していた。
ーこれはヴァティカンがやったことよりもはるかに徹底している。最後には数カ月前にデンマークであったのと同じことがブルガリアで起ったー当地のドイツ当局者は自信がなくなり、もはや信用できないようになってしまったのである。このことはユダヤ人を狩り出し逮捕する役目だったSSに属する警察関係アタッシュにもソフィア駐在ドイツ大使アードルフ・ベッケルレにもあてはまる。ベッケルレは1945年6月、「事態は絶望的である」と外務省に知らせている。・・・・・

そしてその結果、1944年8月(*ロシア)赤軍の接近とともにユダヤ人弾圧法が廃せられたときまでにたった一人のブルガリアユダヤ人も移送されたり変死したりしていなかったのである。」



ぅリシャ


「1943年2月、アイヒマンの部下の二人の専門家・・・がサロニカ(*ギリシャ北部のエーゲ海に面する港湾都市)のユダヤ人移送のための準備をととのえるためにやって来た。サロニカには全ギリシャユダヤ人の三分の二、およそ五万五千人が集中していたのである。・・・・・
軍政部顧問官でこの地方の軍政部を代表しているマックス・メルテン博士とかいう人物と緊密に協力して彼らは早速大ラビ、コレッツを頭に据えて例のユダヤ人評議会を作り上げた。・・・
黄色いバッジを制定し、いかなる例外も許されないとただちに布告した。
メルテン博士は全ユダヤ住民をゲットーに移した。鉄道の駅に近いのでそこからの移動は容易だった。
特権を与えられたのは外国旅券を持つユダヤ人と、例のごとく、ユダヤ人評議会の議員だけだった。-全部で数百人にすぎず、彼らも最後にはベルゲン=ベルゼンの交換収容所(*外国で拘束されているドイツ人と交換するためのユダヤ人の収容所)に送られたのである。
南へ逃げる以外には逃道はなかった。南のイタリア軍は他のすべての国におけると同様ユダヤ人をドイツ側に引渡すことを拒んでいたのだが、このイタリア占領地帯における安全も長くはつづかなかった。
ギリシャ人住民は一番いい場合でもこれに対して無関心で、いくつかのパルティザンのグループなどはこの措置に<同意>していた。二ヵ月以内に全ユダヤ人社会は移送され、アウシュヴィッツ行きの列車は貨車に二千五百から三千のユダヤ人を積んでほとんど毎日出発した。その年の秋イタリアが崩壊すると、アテネおよび島嶼を含むギリシャ南部からのおよそ二万三千人のユダヤ人の移送も急速に完了した。
 アウシュヴィッツでは多くのギリシャユダヤ人がガス室および屍体焼却炉で働くいわゆる屍体班に使われており、彼らはハンガリアのユダヤ人が殲滅されロズのゲットーが撤去された1944年になってもまだ生きていた。その年の夏の終り、ガス殺がもうじき終了しその設備が解体されるという噂が流れたとき、すべての収容所を通じてきわめて稀だった叛乱の一つが起った。屍体班は今度は自分らも殺されるにちがいないと思ったのだ。叛乱は惨憺たる結果に終った。-ただ一人が生き残って事件について語ることができただけだった。
 ギリシャ人の自国のユダヤ人の運命に対する無関心はギリシャの解放後も何らかの形でつづいたものと見られよう。・・・・」








(つづく)