大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(28)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



<バルカンからの移送>


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「 アイヒマンは、自分の組織の才能、自分の機関でおこなわれた強制移動や移送の手順は、事実上犠牲者たちの救いになっていると一度ならず主張した。それによって彼らの運命が多少堪えやすくなっているというのである。どうせおこなわれねばならぬことならば整然とおこなわれるほうがましだと彼は主張した。・・・・・
あきらかにこれは<強制移民>によって数十万のユダヤ人の生命を救ったという愚にもつかぬ執拗な主張と同じ種類のものでしかなかった。
けれどもルーマニアであったことを見ると彼にも一理があるのではないかと考えさせられる。ルーマニアでもひどい混乱だったが、しかしそれはSS隊員ですらベルリンからの命令をサボタージュしたデンマークの場合とは違っていた。
ルーマニアではSSですらも、おそろしく大規模な旧態依然たる自然発生的なポグローム(*集団的な迫害)のむごたらしさに驚かされ、時には恐怖をさえおぼえたのだ。彼らは自身の言う文明的な遣方で殺人がおこなわれるように、彼らが介入してユダヤ人たちを純然たる屠殺から救い出したこともしばしばだった。」



「戦前のヨーロッパでルーマニアは最も反ユダヤ人的な国だったと言ってもほとんど誇張ではない。十九世紀においてすらルーマニアの反ユダヤ人主義ははっきりとした事実だった。・・・・・

第一次世界大戦の終わったときもルーマニアユダヤ人はー数百のセファルディムユダヤ人の家族と若干のドイツ系ユダヤ人を除いてーすべてまだ居留外人とされていた。ルーマニア政府を説得して少数民族協定に同意させ、ユダヤ少数民族に市民権を与えさせるには連合国が全力をあげてかからなければならなかった。これは世界の輿論に対する譲歩だったが、1937・8年にはそれも取消された。ヒットラー・ドイツの力を恃(たの)んで、ルーマニア人は少数民族協定を彼らの<主権>を侵害するものとして敢えて告発し、全ユダヤ住民のおおよそ四分の一にあたる数十万のユダヤ人から市民権を奪うことができると思ったのである。
それから二年後の1940年8月、ルーマニアヒットラー・ドイツの側に立って参戦する数ヵ月前、あらたに成立した鉄衛団の独裁政権の首班イオン・アントネスク元帥は、前大戦の平和条約以前からルーマニアの市民権を得ていた数百家族を除くすべてのルーマニアユダヤ人に無国籍者であると宣言した。
この同じ月に彼は、ドイツを含めて全ヨーロッパで最も厳しいユダヤ人弾圧法をも制定した。従軍軍人と1918年以前にルーマニア国籍を得ていたユダヤ人は特権を与えられたが、この部類は一万人を越えず、全ユダヤ人集団の1パーセントを越えるか超えないかだった。・・・・」



ルーマニアは1941年2月に参戦した。ルーマニア軍団は後のロシア進攻にそなえて頼みになる兵力となった。オデッサだけでもルーマニア兵は六万の住民を虐殺した。
他のバルカン諸国の政府とは反対に、ルーマニア政府は最初から東方ユダヤ人の虐殺について非常に正確に知らされていた。
そして1941年の夏、鉄衛団が政権から締め出された後ですら、ルーマニア兵は同じ年の一月に起った「鉄衛団によるブカレストでの暴行をも色褪せる」ような虐殺と移送の計画ーその惨たらしさたるやありとあらゆる凶行の記録のなかで類例のない計画に手を染めたのである。
ルーマニア式の移送というのは、五千人の人間を貨車に詰めこみ、その列車が何日も何日も目的地もなしに地方を走りまわっているうちに彼らを窒息死させることだった。この殺害の後で彼らが好んでやって見せたのは、屍体をユダヤ人の肉屋の店頭にならべることだった。
東への移送が不可能だったためにルーマニア人自身によって設置され運営されたルーマニア強制収容所の残虐さもまた、われわれがドイツで見たどんなものにもまさって手の込んだ惨たらしいものだった。・・・・・」



アイヒマン自身も1942年4月の日づけの手紙で、今の段階で「ユダヤ人をかたづけよう」とするルーマニア人の無秩序な時期尚早な努力を抑えてくれと外務省に懇願した。「すでに軌道に乗っているドイツのユダヤ人の移送」のほうが優先するということをルーマニア人に理解させねばならぬとして、アイヒマンは最後に「公安警察を動かす」と嚇(おど)している。・・・・・・
ドイツ側は血まみれの混乱が起るのを望まないならば何とか考え方を変えて行かねばならなかった。そしてアイヒマン公安警察を使うと嚇していくら鬱憤をはらしたにしても、ユダヤ人を救うことは何といっても公安警察の任務ではなかった。
それ故8月の半ばにーこのときまでにルーマニア人はほとんどドイツ人の援助なしに三十万近いユダヤ人を殺してしまっていたー
外務省は「ルーマニアユダヤ人の移送はドイツ軍部隊によってなさるべきこと」という協定をアントネスクと結び、アイヒマンは二十万のユダヤ人をルブリンの殺戮収容所に送るのに充分なだけの車両を確保するためにドイツ鉄道当局と交渉をはじめた。ところが、すべての準備ができ、こうした大きな譲歩がおこなわれてしまった今になって、ルーマニア側は突然豹変したのである。・・・・・・

ルーマニアは単純な殺人犯の数が異常にまで多い国であるのみか、バルカンで最も汚職の多い国でもあることをドイツ人は考慮に入れておかなかったのだ。虐殺とならんで免除を金で売る商売が大繁盛しはじめ、官公庁のあらゆる部門がほくほくしながらこの商売にいそしんだ。・・・・ユダヤ人が現金引き替えで外国に売れるのを知ってしまうとルーマニア人はユダヤ人移住の一番熱心な支持者となったー一人当り一万三千ドルにもなるのだ。
こうしてルーマニアは戦争中パレスチナへのユダヤ人移住のために開かれた数すくない出口の一つとなった。そして赤軍が迫って来るにつれてアントネスクはますます<穏健>になり、もはや何らの代償も取らずにユダヤ人が去ることに同意していた。
 アントネスクがはじめから終りまで、(ヒットラーが考えたように)ナツィよりも<徹底>していたのではなく、ただ単にドイツの動きの一歩先を常に進んでいたことは興味ある事実である。彼は誰よりも先にユダヤ人から国籍を奪った。彼はナツィが最初の実験にいそがしかった頃におおぴらに厚顔無恥に大規模な虐殺を開始した。ヒムラーが<トラックと引替えに生命>を提案する一年前に彼はユダヤ人を売ることを思いつき、そしてこれはヒムラーも最後にしたことだが、あたかもすべてが冗談だったかのようにそれに終止符を打った。
1944年8月ルーマニア赤軍に降伏した。・・・・・

ルーマニアの85万のユダヤ人の約半数が生き残り、そのなかの多数のものー数十万ーがイスラエルにむかった。ルーマニアの殺し屋どもはしかるべく処刑された。・・・・」







(つづく)