大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(29)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



中欧からの移送>


.魯鵐リア(*ハンガリー



「この国は憲法上国王なき王国だった。海に接せず、それ故海軍も商船も持たないのに、この国は一人の提督によって支配されていたーというよりも国王があらわれるまで彼の手に委ねられていた。この提督とは・・・・摂政ニコラウス・フォン・ホルティである。・・・・・」


「1930年代のはじめにイタリアのファシズムの影響を受けて、<矢十字>と呼ばれる強力なファシスト運動ががハンガリアに生れ、そして1938年にはハンガリア人はイタリアに追随して最初のユダヤ人弾圧法を成立させた。
この国におけるカトリック教会の強い影響力にもかかわらず、法律は1919年以後改宗した洗礼を受けているユダヤ人にも、のみならずさらに三年後にはそれ以前に改宗しているユダヤ人にも適用された。
けれども人種にもとづく包括的な反ユダヤ人主義が公式にかかげる政策になってからも、上院には11人のユダヤ人が依然として議席を保っており、またハンガリアはユダヤ人部隊ーこの13万人は補助勤務だったがハンガリアの軍服を着ていたーを東部戦線に送った枢軸国で唯一の国だった。
こうして矛盾は、ハンガリア人がその公式の政策にもかかわらず土着のユダヤ人と<東方ユダヤ人>との、<トリアノン・ハンガリア>(つまり、他の継承国家と同様トリアノン条約でつくられたハンガリア)の<マジャール化された>ユダヤ人とあらたに併合された地域のユダヤ人との相違を他の国々よりも強調していたことによって説明される。
ハンガリアの主張は1944年3月までナツィ政府によって尊重されており、その結果ユダヤ人にとってこの国は<破壊の海>のなかの安全な島となっていた。
ドイツ政府がこの国の占領を決意したのは充分理解できることだが、この段階(*赤軍カルパティア山脈を越えて進撃)にいたってもなお「ユダヤ人の解決に取組むことが刻下の急務」であり、・・・・「ハンガリアを戦争にひきずりこむための必須条件」であるとされていたなどということはほとんど信じられぬことである。
この<問題>の<清算>は80万人のユダヤ人に加えて10万から15万と推定される改宗ユダヤ人の強制移動を意味したのだから。
・・・・この仕事はきわめて大がかりでしかも急を要したので、・・アイヒマンは1944年3月にブダペストにやって来た。」



「到着したその夜アイヒマンとその部下はユダヤ人指導者たちを招集して会議を開き、彼らにユダヤ人評議会を作るように説きつけた。この評議会を通じて彼らは命令を発し、そのかわりハンガリアのユダヤ人全員についての絶対的権限をこの評議会に与えるというのである。
この時点で、しかもこの場所ではこの説得は容易な仕事ではなかった。このときにはもう、ローマ教皇大使の言葉を借りれば「移送ということが実際には何を意味するかを全世界は知っていた」のである。
ブダペストではそれのみか、ユダヤ人は「ヨーロッパ・ユダヤ人の運命の後を辿(たど)るまたとない機会を持った。われわれは
アイザッツグルッペン(*ドイツ国防軍の前線の後方でユダヤ人などを銃殺もしくはガス殺するために組織した部隊)の仕事をよく知っていた。」とカストナー博士(*シオニストの最高幹部)は後にニュルンベルク(*裁判)で証言している。
・・・・・・・
ハンガリアのユダヤ人指導者たちがこの時点において「そんなことがここで起ることはあり得ない」-「どうして彼らがハンガリアのユダヤ人をハンガリア国外へ送り出すなどいうことがあり得よう」と思いこみ、しかも現実が毎日この信念を打消しているにもかかわらずあくまでそのように信じつづけたとなると、自己欺瞞というものもよほど高度な技術にまで発展していたに相違ない。・・・・・・」


「このむずかしい交渉を進めるについてアイヒマンの用いた最も巧妙な策略は、努めて彼も彼の部下も収賄する人間であるかのようにふるまったことだった。ユダヤ人社会の統率者である宮中顧問サムエル・シュテルンはホルティ(*ハンガリア提督)の枢密顧問会の一員だったが、非常に鄭重に遇され、ユダヤ人評議会の議長として迎えられた。・・・・・

アイヒマン自身はユダヤ人図書館とユダヤ人博物館を訪れ、すべての措置は一時的なものにすぎないと誰にむかっても断言した。そして最初は策略として見せかけのものだった収賄は本物になってしまったが、ユダヤ人の望むような形ではこれはおこなわれなかった。他のどこでもユダヤ人は何らの成果を得ずにこれほどの金を使いはしなかったのである。あの奇妙なカストナー氏の言葉を借りれば「自分や自分の家族のものの生命について不安を抱くユダヤ人は金銭についての感覚をすっかりなくしてしまう」のだ。・・・・・

クルーマイ(*アイヒマンの部下)は1944年4月にフロイディガー(*ユダヤ人評議会委員)からすくなくとも25万ドルを受取っているし、救済委員会(*ユダヤ人団体)はヴィスリツェニー(*アイヒマンの部下)およびSS防諜機関の幾人かの人物に会わせてもらうためだけに2万ドル払った。この面会の際にもまた出席したSSはそれぞれ千ドルの追加を受取り、・・・・・」


「 けれども、ハンガリアには、すくなくとも自己欺瞞にそれほど唯々として引きずりこまれてしまわない指導者たちを戴いたユダヤ人のかなり大きなグループがあった。シオニスト運動(*イスラエルの地・パレスチナユダヤ人の故郷を再建しようという運動)はこれまでずっとハンガリアでは特別強力であったし、そして当時この運動は最近結成された救済援護委員会に代表されていた。これはパレスティナ機関と緊密な接触をつづけながらポーランド、スロヴァキア、ユーゴスラヴィアルーマニアからの難民を援助して来た。
委員会はその事業の資金を出しているアメリカの合同分配委員会と絶えず連絡を取っており、幾人かのユダヤ人を合法的あるいは非合法的にパレスティナに潜入させることさえやってのけた。破局が彼ら自身の国にも迫った今、彼らは<キリスト教徒証明書>の贋造をはじめた。この洗礼証明書を持っているほうが地下にもぐることは容易だったのである。何をしていようともシオニストの指導者たちは自分が法の保護外にあることを心得ており、それにふさわしく行動した。・・・・・・」


「・・・もっと興味があるのは、シオニストたちとの会談においてはアイヒマンも他のアイヒマン特務班のものも、ユダヤ人評議会の紳士たちに対して用いたあの徹底的な嘘つき戦術を使わなかったことが誰の目にもあきらかだということである。・・・・
重大な交渉ー出国許可書をいくらで買えるかということや・・・生命とトラックの交換についてのーになると、アイヒマンのみならずすべての者が討議に加わった。・・・・・
当然のこととしてシオニストたちに話を持ちかけたのである。その理由は、救済援護委員会は所要の国際的な関係を持ち、外国通貨を調達することがより容易だったからである。
ユダヤ人評議会の議員たちのほうはホルティ摂政のあてのならぬ保護のほかには何らの後裔も持たなかったからである。ハンガリアのシオニストの役員のほうがユダヤ人評議会の議員に普通与えられている逮捕と移送の一時的免除よりももっと大きな特権を受けていることもまたあきらかになった。
シオニストは事実上好きなようにどこへでも行くことができ、黄色い星をつけることも免除され、ハンガリア国内の強制収容所を訪問する許可も受けたし、またしばらく後には救済援護委員会の設立者カストナー博士はユダヤ人たることを示す身分証明書を持たずにナツィ・ドイツを歩きまわることすらできたのである。」


「50万人近い人数の輸送という問題もあったからヴィーンでドイツ国有鉄道の当局者との会議もおこなわれた。アウシュヴィッツのヘス(*所長)はその上官であるWVHA(*親衛隊経済管理本部)のリヒャルト・グリュックス将軍からこの計画を知らされ、車輛を焼却炉から数ヤード以内のところまで近づけるように新しい線路を作ることを命じた。・・・・・・」



「ハンガリアにおける全行動は二ケ月足らずしかつづかず、(1944年)6月初めに突然中断された。ユダヤ人を襲った数々の災禍のなかでもこの行動は主としてシオニストたちのおかげで特に喧伝されてしまいホルティのところには中立諸国やヴァチカンからの抗議が殺到した。・・・・・・・・

スウェーデンは入国ヴィザを発給してまたしても他に先んじて実際的な解決を図り、スイス、スペイン、ポルトガルもその例に倣(なら)い、結局およそ三万三千人のユダヤ人がブダペストの特別の家々で中立国の保護下に生きることになった。
連合国は・・・・・ルーズベルトは、「移送が停止されないかぎり・・・・ハンガリアは他のいかなる文明国も知らなかった運命に陥るだろう」と威嚇的な最後通牒を発した。この威嚇は6月2日の特別激しいブダペスト空襲によって実証された。こうして四方八方から圧力を受けてホルティは移送停止の命令を下した。」


「しかしアイヒマンにとって最も不利な証拠の一つは、彼がこの命令に服さず、(1944年)6月半ばにブダペストの近くの収容所に居合せた1500人のユダヤ人をあらたに移送したという事実だった。・・・・
これがアウシュヴィッツを目指してハンガリアを去った最後の列車だったらしい。

10月中旬に・・・・ロシア軍がブダペストからせいぜい百マイルのところに迫っているというのにナツィはホルティ政権を倒して矢十字団の指導者フェレンツ・サラシ国家主席に据えることに成功したのである。殺戮設備は撤去されようとしていたし、同時にまたドイツの労働力不足はますます絶望的になっていたので、もはやアウシュヴィッツへの輸送をおこなうわけにはいかなかった。
今度はドイツ全権大使・・・がハンガリ内務省と交渉して、五万人のユダヤ人ー16歳から60歳までの男と40歳以下の女ーをライヒ(帝国)へ送ろうとした。・・・
鉄道設備はもはや存在しなかったから、1944年11月に徒歩で行くことになったが、ヒムラーの命令によってようやくこれは中止された。行進を開始していたユダヤ人たちは、免除特権を無視し、また最初の指令に規定されていた年齢制限をも無視して見境なしにハンガリア警察によって逮捕された。行進するユダヤ人たちを矢十字団員が護送し、矢十字団員は彼らから強奪し、これ以上とはない残酷な扱いをした。
そしてこれが終りだった。80万という最初のユダヤ人人口のうちおよそ16万がブダペストのゲットーに残っていたものと思われるー田舎はユーデンライン(*ユダヤ人のいない状態)になっていたーが、そのうちさらに数万が自然発生的なポグローム(*集団的な迫害)の犠牲にとなった。1945年2月13日にハンガリアは赤軍の前に降伏した。
 この虐殺のハンガリア側の主犯はすべて裁判にかけられ、死刑を宣せられ、処刑された。アイヒマンを除くドイツ側の主謀者のうち、数年の禁固刑以上の刑を受けたものは一人もいなかったのである。」







(つづく)