大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(30)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



中欧からの移送>


▲好蹈凜.ア


「スロヴァキア人は1939年3月にドイツがチェコスロヴァキアを占領する前に早くもベルリンにやって来て<独立>について交渉した。そしてこのとき彼らはユダヤ人問題の扱いについて忠実にドイツに従うとゲーリングに約束したのである。しかしそれは最終的解決などというものがまだ全然問題になっていない1938年から1939年にかけての冬のことだった。
約250万の貧しい農民と9万のユダヤ人をかかえたこの小さな国は原始的なほど遅れた国で、しかもカトリック教が深く浸潤していた。当時この国はカトリックの聖職者ヨーゼフ・ティソに支配されていた。この国のファシスト運動であるフリンカ衛兵団すらもカトリック的な思想を持ち、これらの聖職者ファシストの、もしくはファシスト的聖職者の激しい反ユダヤ人主義は、彼らのドイツの支配者の超近代的な人種主義とは表現形式においても内容においても異なっていた。・・・・・

これに対してナツィは主義としては勿論反ユダヤ人的であると同じく反キリスト教的だったのである。スロヴァキア人がキリスト教徒であるということは、ナツィが<時代遅れ>だとする洗礼を受けたユダヤ人と洗礼を受けないユダヤ人との区別を強調しなければならぬと彼らが感じていることだけでなく、すべての問題を中世的な考え方で考えていることだった。彼らにとって<解決>とはユダヤ人を放逐しその財産を没収することであって、-彼らとて時によっては殺すことを厭(いと)わなかったがー組織的な<殺戮>ではなかった。ユダヤ人の最大の<罪>は彼らが異なる<人種>に属することではなく、彼らが金持であることだった。
スロヴァキアのユダヤ人は西欧の標準からすればあまり金持ではなかったが、5万2千人にユダヤ人が二百ドル相当以上のものを所有していたためにその所有物を申告しなければならず、そうして彼らの財産総計が1億ドルに上ることが判明したとなると、ユダヤ人の一人々々がスロヴァキア人の目には大富豪のように見えたに相違ない。」



「<独立>後一年半のあいだはスロヴァキア人は自分の考え方に従ってユダヤ人問題を解決しようと大いに努めた。ユダヤ人の大企業を非ユダヤ人の手に移し、何がしかのユダヤ人弾圧法ードイツ人によればこれは1918年以前に改宗している受洗ユダヤ人を免除しているという<基本的な欠陥>を持つーを制定し、ポーランド総督府の手本に従ってゲットーを設け、そしてユダヤ人を強制労働のために動員した。
非常に早くから、つまり1940年9月にスロヴァキアにはユダヤ人問題顧問が(*ドイツから)送られた。・・・・・」



「この初めの幾年かのあいだにはスロヴァキアでは大したことは起らなかったが、1941年3月にアイヒマンが「若い強健なユダヤ人労働者」二万人の移送について交渉するためにプラティスラヴァ(*スロヴァキアの首都)に姿をあらわした。4週間後ハイトリッヒ(*アイヒマンの上司)自身が首相ヴォイテク・トゥカに会いに来、これまでずっと免除されていた受洗ユダヤ人をも含めてすべてのユダヤ人を東方に移住させるように彼に説きつけた。
聖職者を首班とする政府は、「ドイツ側はこれらのユダヤ人の財産については、引渡されたユダヤ人一人あたり五百ライヒマルクの支払いのほか何も要求しない」ということを知ると、キリスト教徒とユダヤ人を宗教にもとづいて区別するという<基本的欠陥>をただすことを全然ためらわなかった。それどころかこの政府はドイツ外務省に「スロヴァキアから移動させられてドイツ側に渡されたユダヤ人は永久に東方地域にとどまり、スロヴァキアに帰る機会は決して与えられない」という保証を求めたのである。
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そして1942年6月に5万2千のユダヤ人がスロヴァキア警察の手でポーランドの虐殺センターへ移送されていたのである。」



「まだ3万5千ばかりのユダヤ人がスロヴァキアに残されていたが、彼らは皆はじめ免除されていたカテゴリーー改宗したユダヤ人と近親、或る種の職業に属する人々、強制労働部隊の若者たちーに属していた。
大部分のユダヤ人がすでに<移住させられた>このときになって、ハンガリアのシオニスト・グループの姉妹組織であるプラティスラヴァ・ユダヤ人救済援護委員会がヴィスリツェニー(*アイヒマンの部下)を買収することに成功し、ヴィスリツェニーは移送のテンポをゆるめるように図ることを約束した・・・

しかしまさにこの頃ヴァティカンは<移住>という言葉の真の意味をカトリック聖職者たちに知らせたのである。このときから、・・・・・・移送ははなはだしく不評判になり、スロヴァキア政府は<移住>センター視察の許可をドイツ側にやかましく求めはじめたー勿論ヴィスリツェニーもアイヒマンもこの許可を与えることはできなかった。<移住>させられたユダヤ人はもう生きていなかったのだから。・・・・・・・

ティソ(*スロヴァキア傀儡政府大統領で聖職者)は1万6千人から1万8千人までの非改宗ユダヤ人を強制収容所に入れ、およそ1万の受洗ユダヤ人のための特別収容所を設けることを約束したが、移送には同意しなかった。・・・・」



「1944年8月、(ロシア)赤軍は接近し、本格的な叛乱がスロヴァキアではじまり、ドイツ軍はこの国を占領した。・・・・
RSHA(*ナチ国家公安本部)は残っているユダヤ人を捕えて移送させるためにアロイス・ブルンナー(*アイヒマンの部下)をプラティスラヴァに派遣した。ブルンナーはまず救済援護委員会の役員を逮捕し移送した。
それから、今度はドイツのSS部隊の援助を得てさらに1万2千から1万4千人を移送した。
1945年4月4日ロシア軍がプラティスラヴァに到着したときには、おそらく2万人のユダヤ人が災禍を逃れて生き残っていた。」







(つづく)