大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(31)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



<東方>


「ナツィが東方と言う場合には、ポーランドバルト海諸国、ロシアの占領地域を含む広大な地域のことを言っていたのである。・・・・・・


東方はユダヤ人の受難の中心的な舞台だったし、すべての移送の恐るべき終点、ほとんどいかなる脱走もあり得ない、生き残った者の数が全体の5%を上まわることはめったになかった場所だった。
のみならず東方は戦前のヨーロッパにおけるユダヤ人人口の集中地だった。300万以上のユダヤ人がポーランドに、26万がバルト海諸国に、推定300万のロシア系ユダヤ人の半数以上が白ロシアウクライナ、クリミアに住んでいたのである。
検察側がユダヤ民族の受難とユダヤ民族に対しておこなわれた<ジェノサイドの規模>に何よりも関心を抱いた以上、この地方から出発し、そうしてこの正真正銘の地獄を作り出した責任をどれほどまで被告(*アイヒマン)に負わせ得るかを調べようとしたのは当然だった。
具合の悪いことにアイヒマンを東方と関係づける証拠は<不充分>だった。・・・・・」




イスラエルでも他の大抵の国と同じく、法廷に引出された人物は有罪と立証されるまでは無罪とみなされていた。
しかしアイヒマンの場合にはこれは明白なフィクションにすぎなかった。イェルサレムにあらわれる前に有罪と見られていなかったとすれば、しかも疑問の余地なく有罪と見られていなかったとすれば、イスラエル人は彼を(*アルゼンチンから)誘拐することなど敢てしなかったろうし、望まなかったろう。
ペン=グリオン首相(*当時)はなぜイスラエルがアルゼンチンの法律に対する形式的な侵犯をおこなったかを1960年6月3日づけの手紙でアルゼンチン大統領に説明して、「ヨーロッパ全土にわたって前例のない巨大な規模で(600万のわが民族の)大量殺害を組織したのはアイヒマンであった」と書いている。
普通の刑事事件における逮捕の場合は嫌疑は妥当なものであると証明されねばならないが、いかなる疑いも容れぬとまでされる必要はないーそれはその後おこなわれる裁判のなすべきことである。
これに反してアイヒマンの非合法的な逮捕は、単に裁判の結果が確実に予想され得たという事実だけで正当化され得たし、また事実世界の前で正当化されていたのである。最終的解決における彼の役割は猛烈に誇張されていた。・・・・」



「1944年1月にアイヒマンはロズのゲットーー東方で最大の、そして最後に解消されたゲットーーを視察したけれど、1ケ月後グライザーに会いに来てロズ・ゲットーの解消を命じたのはまたしてもヒムラー自身だった。
アイヒマンヒムラーに命令を発することまでできたという検察側の馬鹿げた主張を受容れぬかぎり、アイヒマンユダヤ人をアウシュヴィッツへ送り出したという事実だけでは、アウシュヴィッツに到着したユダヤ人はすべて彼によって送り出されたのだという証明にはならない。・・・・・

アイヒマンは勿論、自分の手にかけた者の圧倒的多数は死を運命づけられていることを知っていた。しかし労働のための選別は現地のSS軍医によっておこなわれるし、被移送者の名簿はそれぞれの国のユダヤ人評議会もしくは治安警察によって作られ、決してアイヒマンもしくは彼の部下の手によらない以上、誰が死に誰が死なぬかを決定する権限はアイヒマンになかったというのが真相だった。」




「そして無論彼(*アイヒマン)は東方では<執行権力>を持ってはいなかった。彼が或る種の命令を現地の指揮官に伝えるために時々ハイトリッヒやヒムラーから利用されていたという事実からは、そのような権力や権限はなおさら出て来るはずがなかった。
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ポーランドユダヤ人の殺戮をヒットラーが決めたのは、最終的解決の命令の発せられた1941年5月もしくは6月ではなく、1939年9月だった。このことはドイツ防諜部のエルヴィン・ラホウゼン博士のニュールンベルク(裁判)における証言から判事たちは知っていた。
「早くも1939年9月にヒットラーポーランドユダヤ人の殺害を決定していた。(それ故ユダヤ人の星のしるしは1939年11月、この地域の占領直後に総督府領では布告されたに反して、ドイツ国内にこれが導入されたのは1941年(*3月総統命令)の最終的解決の時になってからである。)」









(つづく)